facebookの正義派の人たちに一言。人を信じないなら「正義」など語る資格はない! | ジャーナリスト 石川秀樹

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


僕にはあまり人の好き嫌いがない。
無論、努力の結果である。
嫌いにならないで人とつきあうと、相手もこちらを嫌わなくなる。
そんなことが分かるようになって、僕は少し変わった。




同様に、主義・主張についても「どうしても」というほどのものはない。
融通無碍(ゆうずうむげ)、ある意味ではいい加減。
人に動かされやすいのかもしれない。


■人がこぞって右に行くなら、僕は右に行かない

信念がないのは悪いことのようだが、そうでもないと僕は思うのだ。
いい加減とは「良い加減」でもある。
人と自分とがあるのだ。
自分ばかりが勝っていては、具合が悪い。



僕は自分が偏っていることをよく知っているから、人の意見はよく聞く。
特に、妻の意見は常に傾聴する。
バランススーパーウーマン、これぞ世の中の正当な考えなのだということが分かる。
そこで少々、自分の意見を修正することもあるし、聞き置く場合もある。
聞き置きながら、頭の中ではなおも執拗に考える。
結果、どちらの考えにより近づくにしても、当初の考えよりは深まっている。



人がワァーと右に動き出したときには、僕は滅多に右に行かない。
本能なのだろう、『待てよ』と思うのだ。
ところが、最近のメディアは「右」となると誰もが「右」に行く。
そんなばかなことがあるものか!



>■今も昔も「自分が正しい」と言い張るヒトがいる


先日の鉢呂経産相の「死の町」発言だって、そうだったではないか。
真昼間、人っ子ひとりいなければ「死の町」と感じるのは普通の感覚だ。
だがメディアは、1社が取り上げればこぞって取り上げ「問題発言」とした。
後から冷静に見れば、鉢呂氏は原発問題をきちんとやろうとした人だった。



だから「あれは、鉢呂を煙たい役人どもが早めに追い落としたのだ」と、
いかにものことを言う人もいる。
が、僕はその意見にはくみしない。
仕掛けがあるにしろないにしろ、陰謀説は常に根拠があいまいだから。



鉢呂氏問題で言いたいのは、「今度もまた一方に走っちゃったね」ということである。
これだけ記者がいるのだから、感じ方、捉え方は違っていて当たり前だ。
であるはずなのに、どうしてこう何度も何度も、同じ間違いを犯すのだろう。



前置きのつもりが、長くなってしまった。
本日言いたかったのは、
今も昔も「自分が正しい」と言い張る人間がいる、と言うことである。



好き嫌いを抜きにして、どうにもつきあいにくい。
「教条主義」体質と言えば大げさだが、こういう人は苦手である。
しかし今度は、火の粉が僕の方に飛んできたので、知らぬ顔もできない。



■おぞましい夢にうなされて…

火の粉というのは、実は昨日、ほんとうに忌まわしい夢を見てしまったのだ。



人が人の命令によって銃殺される、という夢!
夢だとしてもあんまりじゃないか。
しかも、一度に8人もが殺されてしまった!!



その夢の、自分の立ち位置が問題だ。
僕は、命令する者ではなく、命令を伝達する者でもなく、犠牲者でもなかった。
ただ、命令する者にきめて「近い者」のようだった。



「この程度のことでなぜ殺さなければいけないのか」と心の内で思っている。
しかし何も言えないでいるうち、突然、銃が放たれた。
被害者たちは「信じられないような顔」をして静かにもがき、
「こんなことをされているんだよ」と言いながら、絶命していった。



時間にすれば起きがけのわずか数秒の夢だと思う。
しかし、ひどく後味が悪い。
僕は自分を『卑怯者』と思わないではいられなかった。
止めない、ということは、自分の安全を優先したからに違いないからだ。



しかしなぜ、こんな理不尽な夢を見なければいけないのか。
心当たりがあるとすれば、「いいね!革命」のリーダーを批判をしたこと。
さらに最近、その「いいね!革命」を批判するグループを批判しようとしていること?



■誰の心の中にもすくっている教条主義

右を向いても左を向いても拳を振り上げているから、
僕自身が「粛清者」のように、”敵”掃討願望が生まれてしまったのか…。
訳が分からない。



そもそも俺は、「教条主義は嫌いだ」と言っているではないか。
その俺が、なぜ加担者の側にいたのか(たとえ夢の中でも!)
目が覚めてしばらくして、少し冷静になってから、
僕は夢の意味を以下のように分析した。



教条主義に無縁のような顔をしながら、この”魔物”は僕自身の中にも在る。
現に僕は夢から覚める瞬間まで、こう考えていた。
『これ以上の粛清を防ぐには、俺がこいつを殺る(やる)しかない』と。
意に染まない者は消す。
教条主義に陥ったリーダーと同じことを、僕はしようとしていたのだ。



他人への非寛容自己の正義への盲信
そんなことが、極端な場合、人を殺(あや)める契機になっていく。
人というのは、つくづく恐ろしい!



今は平和な時代なので、僕の妄想は夢だけのことで終わった。
日本にいるからこそ「頭の中で考えたこと」だけで済ますことができたのだ




■思想や疑心暗鬼で人を殺すのは人間だけ

先の大戦中のヒトラーの例を引き合いに出すまでもなく、
人類はたった一人の妄想、疑心暗鬼、自己陶酔などにより
多くの無辜(むこ)の者を殺してきた。
僕らの世代だと、連合赤軍の陰惨な「総括」事件を思い出す。



日本人の英雄と言えば織田信長だろうが、この者は比叡山を焼き討ちした。
確かにその行為は、天下布武に必要で歴史をつくる行為であったかも知れない。
しかし、目の前でその事件を目撃した者にとっては、
それは僧兵、男女、子どもを構わない無差別殺人であったはずだ。



秀吉でなくても、その命令を肯(がえんじ)ないというのが人の心というものである。
だから彼は、ひそかに女・子どもを逃がした。
武将としては失格だったろうが、この時の秀吉は好きである。
しかしその後、彼自身が一族を殺す惨をおかしている。
人間というものは……、である。


■友達の一言で葛藤が晴れてしまった

今度は遠回りしてしまった。
夢の契機になった(と思われる)近況報告しなければならない。
ごくつまらない話である。
僕がかかわっているfacebookの非公開のグループで、
僕が「スパイじゃないか」と陰口をきかれただけのことである。



瞬間湯沸かし器だから、その時の僕はカッときた。
『絶対に許さない!』と、僕は拳を振り上げ、
そのことの一部をノートに書き付け、ウォールに掲載した。



するとほどなくして、友達の一人から
「計り知れない英知、ばかげたことに使うのはもったいないです」
とのコメントをいただいた。
それでスーッと、僕の葛藤は晴れてしまった。



うれしい理由があった。
その友達は「いいね!革命」批判のときに友となった人だったからだ。
批判された側の人からの思いやりある一言。
その寛容さに、僕は『心が通じた』との思いを深くした。



■「いいね!革命」批判グループの非寛容

一方、「いいね!革命」を批判していた非公開グループでは、
僕の渾身の力をこめて書いたノートは一部の人に読まれたのみで、
多くの人は無反応だった。
そして少数の非寛容者は「スパイ」という陰口で、僕への否定的な思いの憂さを晴らした。



僕の願いはソーシャルメディアの健全な発展である。
いまだ小さなコミュニティーであるfacebookを「メディア」と言われるまでにしたい。
だからこそ「いいね!革命」の勇み足を指摘したのだし、
マナーやモラル、規範を守ることの大切さを説いてきたのだ。



「いいね!革命」を批判するグループはその点、信頼できると信じていた。
しかしその非公開グループで僕が見たものは、
非寛容であり、思い込みで激しく人を批判する独善だった。



断っておくが、上記は僕の感想である。
違う人がこのグループを見れば、また別の感想を持つかもしれない。
かように、誰が書いたものでも、その人なりのバイアス(偏向)はかかる。
(このことを書き始めるともう一つのノートが必要だからこれ以上の説明は控えるが)



■人を全否定したら「取材」はできない

このグループでは、こんな会話も交わされた。
「友達の一人がいいね!バッジを付けている人と友達になってしまった。
この友達をブロックすべきだろうか」と。



『おいおい、この人たちは…』と、僕は思った。
非寛容というより愚かである、何かを勘違いしている。
第一、相手のウォールを読まないで、その人をどう判断しようというのか。



このグループにいる人はジャーナリストではない。
しかし、いやしくも人を批判するのに自らの目を閉ざしていて何を指摘できるだろう。
僕は逆に、正確な情報を得るため次々、バッジを付けている人に友達申請を出した。



その結果、ただの一人もリクエストを返さない人はいなかった
僕は「いいね!革命」の批判者であることを名乗って申請したにもかかわらず。
このことがあって、運動の参加者に問題があるわけでないことを直感した。



メッセージやウォールを通じていろいろな話をした。
その人だけしか知らない話さえ、聞かせてもらった。
また「いいね!革命」の非公開のグループについても、ある人から詳細を聞き、
それは僕のノートの記述の貴重な証拠資料となった。



■突き詰めきれないから人は救われている

このような次第で、取材に協力してくれた彼らに僕は強い共感を感じる。
だから「いいね!革命」を批判するグループのウォールで、
再三にわたって「僕たちは検察官ですか?」と注意を喚起した。
そして自分は「いいね!革命」を弁護する者でもない、と表明した。



こうした過程を通して、僕に対する「スパイ」呼ばわりが生まれたのだが、
もうそんなことはどうでもよくなった。



こんなつまらないことで、人の貴重な時間を奪うべきではない。
今はこの日本に、語るべきもっとずっと重いテーマがある。
震災復興、原発廃絶、増税問題、福祉(高齢者)、未来世代への責任…。
人をスパイと呼ぶ者も、それにいきり立つ僕も、
ひとつ視野を変えれば実に小さな自意識のためにあたら時間を浪費している。



100%の人間などいない。
完ぺきな善人も、完ぺきな悪人も、
非情な者も温厚な人も、どこか突き詰められないものを持っている。



突き詰める者は人に銃口を向けられる者だ。
構わず引き金を引ける者だ。
幸か不幸か、僕はそのような者ではないし、また多くの人も僕と同様だろう。



◇   ◆   ◇

人を好きだ嫌いだ、善だ悪だと決め付けのは傲慢である。
僕が2度とあんな無残な夢を見なくてすむよう、
「いいね!革命」を批判するグループの人たちよ、
自分の正義を信じるのもほどほどにしてもらいたい。




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