川田利明がUインターに参戦は全日本プロレスの開国とも呼ばれました。
1996年8月に馬場さんが「過去に全日本と問題のないところは交流できる」と発言したところから始まっていました。
新日本プロレスとは問題だらけだから無理かな
馬場さんは、その中で「高田とならやってもいい」と言っていたのです。
当時、Uインターは前年に始まった新日本プロレスとの交流が一段落していたころだったのです。
Uインターは8月と9月に神宮球場で興行を開催予定でした。
8月に行われた興行は10,500人の観客動員数で惨敗でした。
9月は高田vs天龍をメインに新日本プロレスから橋本真也、佐々木健介を参戦と発表しましたが、チケットの売り上げは伸び悩んでいました。
新日本プロレスとの対抗戦はやりすぎて、もうインパクトに欠けていたんだよね
ここで馬場さんと接触をしたのです。
Uインター側は取締役の鈴木健さんが馬場さんと会いました。
Uインターの1億円トーナメントを発表した時、週刊プロレスの表紙に出たのが鈴木さんだね
鈴木さんはハンセンを望んでいたのですがスケジュールが合わず…
そこで馬場さんから出たのが「川田か田上じゃダメか?」でした。
鈴木さんはプロレス業界を知らない人だったのか、全日本プロレスをリサーチしていなかったなのか、川田と田上の価値を知らなかったです。
返事を持ち帰り、高田に報告したところ、高田は驚き、「川田がいいよ!」と叫んだそうです。
プロレス業界にいながら全日本のリサーチをしてないって…
これで川田参戦は決まりました。これを発表したところ、チケットが一気に売れ出し、前売り券が完売したのです。
これだけ全日本プロレスが他団体と交流する価値をファンは知っていたのでしょう。
当日、観客動員数は41,087人と前回8月より4倍でした。
川田は試合前、「他団体に上がっても全日本プロレスの試合をやる」と発言していました。
対戦相手は高山善廣。
試合は川田の言葉のとおり、
全日本プロレスでのスタイルを崩さず、
ハイキック4連発でフォール勝ちしたのです。
負けた高山は再戦を望み、全日本プロレスへの参戦にも意欲を見せました。
この試合をメイン出場の天龍もベンチで見ていたそうです。
メインは高田さんが勝ったんだよね
天龍としても全日本プロレスを意識していたのでしょう。
この神宮球場大会は大成功に終わりましたが、Uインターは12月に解散してしまい、高田の全日本プロレス参戦は夢と終わりました…
しかし、高山は翌1987年にフリーとして参戦。
Uインターに上がっていたゲーリーオブライトとのタッグで全日本初参戦したんだよね
その後、高山は全日本プロレスに参戦し続けました。
馬場さんから厳しい指摘がありましたが、高山の素質を馬場さんは買っており、直接指導しました。
このことがプロレス界の帝王と呼ばれるようになる高山のきっかけだったと思います。
つづく
















