国際プロレス設立の記者会見で吉原功さんはシリーズ毎に選手と契約を交わし、試合をするリングを提供するアメリカのプロレス界と同じフリーランススタイルを提唱しました。
吉原さんは日本プロレスに協力を求めましたが拒絶されました。
日本プロレスの芳ノ里社長は「ライバル団体に自分のところの大事な選手を簡単に貸せるわけがない」と笑い飛ばしたのです。
日本プロレス 芳ノ里社長
確かに団体のレスラーを出すなんて考えられない時代だね
結果、吉原さんの提唱したフリーランスシステムは頓挫し従来の所属選手スタイルになりました。
吉原さんは小林省三、井上末雄をスカウトしました。
(後のストロング小林、マイティ井上である。)
これはいつの画像だろうね、上の真ん中が吉原さんで右が小林さん、下の左が井上さんだね。
これでも日本人レスラーが不足していました。
そこで目を付けたのは、国際プロレスに先駆けて旗揚げしていた東京プロレスでした。
東京プロレスのエースはアントニオ猪木さんで1966年10月12日に旗揚げしたんだよね
東京プロレスは旗揚げしたはよいが、資金難に落ち入り興行を打てない状況で、さらには金銭トラブルで猪木派と豊登派に分裂していたのです。
ヒロマツダはアメリカでタッグを組んでいた猪木さんにオファーを出した。
試合も出来ず、金銭的にも困っていた猪木さんはオファーに応じ東京プロレスのレスラーと国際プロレスに参戦することになったのです。
ここで猪木さんと揉めていた豊登は参戦を拒否しました。
外人レスラーはマツダのルートでダニーホッジ、エディグラハム、ジェイクスミスとルークグラハムのザ・ケッタキアンズ、ジョニーバレンタインらが参加しました。
国際プロレスの旗揚げシリーズは東京プロレスとの合同興行として1967年1月に開催と発表。
1967年1月5日、大阪府立体育館で国際プロレスは旗揚げしました。
つづく
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