1972年7月29日、日本プロレスの第一次ビッグサマーシリーズの開催中にジャイアント馬場さんは東京、赤坂プリンスホテルで記者会見を行いました。
「私、馬場正平はプロレスラーとしての信義と姿勢を貫くために日本プロレス興行株式会社から離れることを決意、先ほど同社に辞表を提出した次第であります。」
馬場さんが日本プロレスを辞めることの会見だったのです。
馬場さん、迷いのないスッキリした表情だよね
会見では、「新団体を設立し、再び日本テレビのブラウン管にのりたい」と話ていました。
さらに、まだ日本テレビとの交渉はこれからと話ていましたが…
すでに日本テレビとは全て話し合いができている状況でした。
だからこそ、何事も慎重で石橋を叩いても渡らない馬場さんが、ここまで大胆に行動したのです。
馬場さんとしては自身のNET(現在のテレビ朝日)出演が納得のいくものではなかったのが、ひとつの要因だったのです。
日本テレビは馬場さんを独立させるために、
・新団体旗揚げに関する資金は全て日本テレビが負担する。
・放映権料も最大限用意する。
・馬場さんがいる限りプロレスが下火になっても放送は打ち切らない。
等々の好条件を提示したのです。
結果的に馬場さんの全日本プロレスは日本テレビで馬場さんが存命中は放送時間は変われど放送は続きましたね。
馬場さんが亡くなった後、三沢光晴さんらが全日本プロレスから離脱して『全日本プロレス中継』は打ち切りになったね。
この会見の前に馬場さんから辞表を受けた日本プロレスの社長、芳の里ら幹部らは、まさに茫然自失でした。
芳の里は「突然こんなことをやってのけるとは…当然慰留する」とショックを受けた感じでした。
選手会長の大木金太郎は怒り心頭でした。
猪木さんを追放しても馬場さんがいるから安心していた日本プロレス幹部連中は馬場さんの離脱宣言に危機的状況に焦りを見せたのです。
馬場さんは日本プロレスの第一次ビッグサマーシリーズのポスターに自らの顔が載っているので、このシリーズは出場し、最後の試合は8月18日の宮城県石巻市大会でした。
ちなみに次期シリーズ、第二次ビッグサマーシリーズのポスターがこちら⬇️
坂口征二さんが全面に出てるね
馬場さんは新団体設立のために渡米しました。
一方、日本プロレスは馬場さんを慰留させるべく行動に出たのです…。
つづく
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