東京プロレスが崩壊し、アントニオ猪木さんはどうなったのか?
アメリカに渡るのか?はたまた国際プロレスに入るのか?
結果は…日本プロレス復帰でした。
日本プロレスは東京プロレスが旗揚げした時、豊登は除名処分にしていたが、猪木さんは「豊登に騙されているに違いない」と処分を保留のままにしていたのです。
当時、日本プロレスのコミッショナーであった川島正次郎も猪木復帰に賛同したのです。
(川島正次郎は与党のナンバー2と言われるほどの大物政治家でした。)
日本プロレスとしては、猪木さんが旗揚げしたばかりの国際プロレスに参加することを恐れていたと思いますね。
ちなみに東京プロレスに参加していた木村正雄、後のラッシャー木村は日本プロレスに復帰できず国際プロレス入りしました。
1967年5月、日本プロレスの第9回ワールドリーグ戦の開幕戦で猪木さんはリングに上がり挨拶。
その後、入場式で馬場さんが外人レスラーに襲われた時、
猪木さんはリングに上がり外人レスラーを蹴散らしたのです。
ちなみに、この時のワールドリーグ戦には猪木さんは参加はしてませんが、シリーズには参加しています。
そして…5月12日の岐阜大会で、
馬場、猪木の初タッグが実現。
BI砲の誕生でした。
相手はワルドーフォンエリック、マイクデビアス組でBI砲が2-0で勝っています。
猪木さんは日本プロレス復帰で馬場さんに次ぐナンバー2の存在になりました。
しかし、全ての人が猪木さん復帰を歓迎したわけではありませんでした。
その筆頭は、大木金太郎だったと思います。
つづく…
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