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天下を競望せず…
わしは吉川元春(きっかわもといえ)の三男、広家(ひろいえ)です。
天文9年(1540年)8月10日、ついに尼子詮久(あまこあきひさ)は三万の大軍を率いて石見路から進軍してきました。
尼子は出雲、石見、伯耆、因幡、備前、備中、備後、美作、安芸から三万の軍勢で攻めてきたんだよ
我が祖父、毛利元就(もうりもとなり)は一族郎党を引き連れて吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)で籠城する策をとったのです。
元就は兵2,400と農民、商人、職人を城内に入れたのです。その数、8,000。
次郎(じろう、のちの元春)は入城してくる民を見て、
次郎「元正(もとまさ)!城が賑やかになってきたが、戦う兵は2,400。数では尼子に勝てぬ。」
元正「殿は大内(おおうち)様に援軍を頼むのでしょう。」
次郎「援軍は来るのだろうか?」
元正「大内様とて安芸を重要としています。そこは殿も策に入っているのでしょう。」
次郎「ならば援軍が来るまで、この城を守らねばなるまい。やはり、わしも戦に出る!」
元正「次郎様!!」
元正さんは毛利家の重臣、福原広俊(ふくはらひろとし)さんのの子だね
次郎は初陣できるよう、母の美し(よし)に懇願しました。
次郎「母上、武士は民を守らねばなりませぬ。次郎の武士の子。戦に出ずして武士の子とは言えませぬ!」
美し「此度は毛利の危機なのです。今は生きることに力を尽くしなさい。」
次郎「生きること…」
美し「万一のことがあっても生きていれば毛利を立て直すことはできるのですから。」
美しはとても強い心を持つ方でした。しかし、美しの実家の吉川家は尼子方についており複雑な心境でもあったのです。
この時の吉川の当主は吉川興経(きっかわおきつね)なんだ
9月に入り、尼子の攻撃が始まりました…。
つづく…
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