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承久の乱(じょうきゅうのらん)で戦後、自ら望んで配流された土御門上皇(つちみかどじょうこう)。
争わない穏やかな性格でしたが、父・後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府と争うのを「今はその時ではありませぬ」と止めていました。
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戦後、父や異母弟の順徳上皇(じゅんとくじょうこう)が配流となる中、承久の乱には関わりがなかったのに、「京にいるのは忍びない」と幕府に配流を求めたのです。
幕府はしぶりましたが、願いを聞き入れて、1221年、土佐国(現在の高知県)に流されました。
幕府は土御門上皇には高待遇をし、1223年はより京に近い阿波国(現在の徳島県)に移したのです。
さらに阿波国の守護・小笠原氏(おがさわらし)に命じ、宮殿を造営させたのです。
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土御門上皇は1231年に崩御されます。
最後の地と言われているのが…
阿波国の御所神社(ごしょじんじゃ)。
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土御門上皇の天皇陵は京都府長岡京市にある金原陵。
さらに徳島県鳴門市の阿波神社(あわじんじゃ)には火葬塚があります。
泰時としては土御門上皇に帰京してほしかったのかもしれません。
ただ土御門上皇が崩御された時は後鳥羽上皇が存命中であり、帰京する気はなかった…のかも⁈
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