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外伝「八幡の武将」〜里見氏との抗争④です。
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1574年、甲斐国・武田勝頼(たけだかつより)の仲介により北条氏(ほうじょうし)と里見氏(さとみし)は停戦状態になりました。
しかし、武田は1575年に起きた長篠の戦いで織田信長(おだのぶなが)、徳川家康(とくがわいえやす)連合軍に大敗したのです。
武田勝頼は織田や徳川への対抗に専念、関東における発言力を失ったのです。
この影響で北条と里見の停戦は崩壊しました。
里見の当主・里見義弘(さとみよしひろ)は、
義弘「武田はなくとも越後の上杉(うえすぎ)がおる。反北条の旗頭、上杉と一緒に対抗するぞ!」
ところが上杉謙信(うえすぎけんしん)も将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の要請で織田との対決に乗り出していたのです。
頼みの上杉も関東に関与できる状態でなく、里見は焦りました。
義弘「上杉も関東を見捨てるのか…このままでは北条が攻めてくるぞ。」
上杉の勢力をほぼ一掃した北条氏政(ほうじょううじまさ)は1577年、上総国を攻め、里見に対し攻勢にでました。
しかし、両者は和睦の方向に進んでいったのです。
北条は北に今だ上杉がおり、北東には佐竹(さたけ)がいた為、北条の全勢力を里見に注ぎ込むわけにはいかなかったのです。
氏政「我が北条が有利な立場である今こそ、和睦の好機じゃ。これ以上、戦をしても民を苦しめるだけじゃ。」
そして…ついに北条と里見の和睦が成ったのです。
これを房相一和(ぼうそういちわ)といいます。
長年、戦で苦しめられた房総一帯の民にとっては房相一和は歓迎できるものでした。
里見義弘としては苦渋の選択でした。
義弘「長年、遺恨のある北条と和睦せねばならんとは…しかし、これも里見の家を守るため致し方ない。」
翌1578年、義弘は亡くなりました。
この房相一和は不安定な状態ながらも豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐(おだわらせいばつ)までの13年間、維持されたのでした。
外伝「八幡の武将」〜里見氏との抗争
完
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