世は群雄割拠の戦国時代。
わしは北条氏康(ほうじょううじやす)です。
綱成(つなしげ)は隠居後、目立った活動はありませんでした。
綱成は自らが開基した龍寶寺(りゅうほうじ)で過ごしていたのです。
綱成の嫡男・康成(やすしげ)は綱成隠居後、玉縄城(たまなわじょう)の城主となり、玉縄北条氏(たまなわほうじょうし)の当主ともなり、名を氏繁(うじしげ)と改名しました。
1578年、綱成の元に忍びの美咲(みさき)が来ました。
綱成「美咲、久しぶりではないか。氏繁の下で働いていたのではないか?」
美咲「……氏繁様が…お亡くなりになりました。」
綱成「なんと申した⁉︎ 」
美咲の話によると氏繁は常陸国の佐竹氏(さたけし)の抑えとして下総の飯沼城(いいぬまじょう)に居ましたが、病を患い、病死してしまったのです。
綱成は飯沼城に出向き、氏繁の亡骸に会いました。
綱成「氏繁、わしより先に逝くとは…」
綱成は泣きました。子を亡くしたわしには綱成の気持ちが痛いほどわかりました。
氏繁の後、玉縄北条氏は氏繁の子、氏舜(うじとし)そして氏勝(うじかつ)が継いでいきました。
世は動き、1573年、武田信玄(たけだしんげん)は上洛途中に病死、1582年、武田家は織田信長(おだのぶなが)によって滅んだのです。
上杉謙信(うえすぎけんしん)も1578年に病死しました。
天下は信長が統一を成し遂げると思いましたが、本能寺の変(ほんのうじのへん)で討死したのです。
その間、我が北条は関東で勢力を伸ばしていましたが綱成はただただ龍寳寺で経を上げる日々を過ごしていました。
そして1587年、綱成はわしの墓所に参りきてくれました。
綱成「氏康様…北条は関東を平定し、民に慕われる国になりましたぞ。信玄、謙信…我が好敵手も既に亡く、わしもそろそろ逝きますぞ。」
綱成は群雄割拠の時代で駆け抜けた数々の合戦を思い出していました。
河越夜戦、謙信との小田原城での戦い、里見氏との国府台合戦、信玄との三増峠の戦いと深沢城の戦い……
綱成「わしは力いっぱい生きた。思い残すことはない。」
1587年6月11日、綱成は亡くなりました。
綱成の墓所は氏繁、氏勝と一緒に並んでいます。
わしは綱成が叫びながらとこちらに来るような気がします…。
綱成「氏康様〜、勝った!勝った!」
「八幡の武将」
完
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