なんとか南都までたどり着きましたが、忠実は対面を拒否します。
忠実とすれば乱に無関係を主張するには頼長を見捨てるしかなかったのです。
頼長は失意のあまり、舌を噛み切ったともあります。頼長は母方の叔父のところに担ぎ込まれましたが、手の施しようがなく…亡くなりました。
悪左府と呼ばれた頼長の最期です。
逃亡していた崇徳上皇は仁和寺に出頭し同母弟の覚性法親王に天皇方への取りなしを依頼しました。
しかし、この申し出は断われ、上皇は天皇方の源重成の監視下に置かれました。
やがて上皇は讃岐国に流されます。天皇または上皇の配流は『藤原仲麻呂の乱』における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事です。
その後、上皇は二度と京の地を踏むことはありませんでした…。

崇徳上皇が配流され、たどり着いた讃岐国・松山の津