上皇は、仏教に深く傾倒し、写本作りに専念しました。先の乱の戦死者の供養と反省の証にと出来上がった写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に願いでました。
しかし、後白河天皇は
「呪いが込められているのではないか?」
と疑い拒否して写本を送り返しました。
この朝廷の行為に崇徳上皇は激しく怒ります。
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
との文言を自ら舌を噛み切り、写本に血で書き込みましす。
そして、爪や髪を伸ばし続けて、まるで夜叉のような姿になりました。
後に生きながら天狗になったとされています。

一方の説では自らを配流した者への怒りや恨みはなく、寂しい生活をおくり、病が年々重くなってきました。
また配流先で実際に読んだ歌があります。
「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」
これを見ても悲壮感は伺えても、怨念を抱いていたとは感じません。
1164年8月26日、46歳で崇徳上皇は崩御されました。
その後の崇徳上皇は罪人扱いされます。
しかし、1176年に後白河天皇に近い人々が亡くなり、1177年には延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こりました。
人々は崇徳上皇や藤原頼長の怨霊ではないかと意識されました。後白河法皇(この頃は譲位、出家して法皇となっています)は怨霊鎮魂のため、罪人扱いを取り消します。
このことが先の讃岐国での天狗となったとの説が出たのかもしれませんね。
後世、四国では崇徳上皇は守り神であるとの伝説も出ました。
崇徳上皇の御陵は崩御地である香川県坂出市にあります。これが白峯陵です。(四国八十八箇所第八十一番札所白峯寺に隣接しています。)


崇徳上皇の御陵・白峯陵へ続く階段。御陵でお参りしてきました。
今、崇徳上皇は静かに眠っています。
(悲運の上皇 終)