平安時代には皇室と婚姻関係になり、摂関政治を行い、藤原道長・頼道の頃は最盛期でした。
しかし藤原氏と婚姻関係のない白河法皇の院政の頃、勢力は後退しました。
鳥羽上皇の頃に勢力回復しだしましたが、そこで現れたのが「藤原頼長」です。
頼長は旧儀復興・綱紀粛正に取り組みましたが、苛烈で妥協ない性格でした。
周囲からは「悪左府」(あくさふ)と異名を取られました。
悪左府とは悪の左大臣ということですが、この「悪」も現代の「悪い」という意味ではなく、むしろ性質・能力・行動など抜きん出て優れているのを畏怖した表現でした。
しかし頼長は周囲との衝突を繰り返して嫌われていたようですね。
そして近衛天皇を呪詛した疑いをかけられ鳥羽法皇の信頼を失います。対抗勢力に嵌められたということでしょう。
この頼長と崇徳上皇が手を結びます。

藤原頼長