3 自分の子供を僕以外に誰が守るのだろう
自分の子供を僕以外に誰が守るのだろう。
自分の子供が普通と違っているから、
世間が嫌がる。
自分の子供が皆と同じことができないから、
大人たちは邪魔だと思う。
世間が、大人たちが、僕の子供を見捨てるとき、
いったい誰が僕の子供に寄り添うのだろう。
僕の子供が学校でいじめに合っているとき、
その痛さから誰が守ってくれるのだろう。
僕が自分の子供を見捨てたら
いったい誰が僕の子供を守ってくれるのだろう。
自分の人生を振り返れば
僕の人生は踏んだり蹴ったりだった。
でも、いつも僕を愛してくれる誰かがいた。
だから僕は生きることを諦めなかった。
自分がどんな自分であろうと
愛してくれる誰かがいた。
自分の子供が世間から冷たくされたとき、
誰が自分の子供を愛してあげるのだろう、
父である僕しかいないじゃないか。
僕の愛を通して
子供が神様と出会いますように!
2 自分らしい自分というけれど
自分らしい自分というけれど、
自由な自分とはいわないようだ。
自由からの逃走という本があったような...
人間は本当の自由を嫌うという意味だ。
人間なんて言ったけれど、
私たちは人間なんて存在ではない、
せいぜい、日本に住む社会人程度だ。
そう、我らは日本社会に住む共同体の一員なのだ。
だから、様々な社会的条件の中で生きている。
この社会の中では誰もが貨幣を生きる糧にしている。
働かざるもの食べるべからず。
引き蘢りの人たちだって、
親の稼ぎがあるから生きていられる。
自分に稼ぎがないから親の支配を受ける。
どんな働き方でも良いから自分で稼ぐ能力を身につけさせる、
これが親の責任であり義務だ。
そして、そうした能力を身につけるために、
社会は様々に勉強できる機会を用意している。
自分らしく、なんていうけれど、
それは自分勝手に生きられるという意味ではない。
他者のものを盗めば窃盗や万引きで犯罪者になってしまう。
私たちは社会に生まれてきた以上、
お金を稼ぐ能力を身につけなければ生きていけない。
本当に自由になるということは
社会から追放されるということだ。
だから、若者よ、生きていくためには働くことを受け入れなければいけない。
そのことを人生の先輩たちは優しく辛抱強く教える義務がある。
それが、高齢者になった僕の愛だと思う。
社会人であるかぎり、
意味も考えずに
自分らしい自分になれ、なんてヤケッパチに言うべきではない。
自分らしいやり方でお金を稼げるようになろうと言うべきだ。
それが他者の幸せを願う条件付きの愛だと思う。
でも、一方に神の恵みのような無条件の愛もあるけどね。
1 天使と悪魔ね〜
天使と悪魔ね〜
人はよくそんなことを言う。
あの人は悪魔よ!
あんな人と付き合っちゃいけないのよ。
でも、よく話を聴いていると、
天使は自分の言うことを聞かない人たちのことを悪魔と呼んでいるみたいだ。
天使は自分が善で、自分の思う通りにならない人たちを悪だと決めつけている。
僕は、そんな天使たちには逆らうことにしている。
だから僕は悪魔に違いない。
で、僕は自分が悪魔と思われても、そんなことはどうでもいいと思っている。
むしろ、天使扱いされるより悪魔でよいので、
純粋な気持ちを持った悪魔でいたい。
体に正義の血が流れる悪魔でいたい。
そして心のなかでこう思う、
愛のない天使に不幸を!
愛のある悪魔に幸せを!
でも、自分では天使に対し何もしない。
何もしなくたって、
天使でも悪魔でもない神が
愛のある者には幸せを恵み、
愛のない者には不幸をもたらすからだ。
神は天使でも悪魔でもない。