アラ還おやじの食道がん闘病記 -37ページ目

アラ還おやじの食道がん闘病記

2018年3月8日(58歳)胸の痛みと喉の違和感で消化器内科を受診。
食道にがんが見つかり抗がん剤治療、食道亜全摘手術、そして"がんサバイバー"としての生活が始まりました。
幸いなことにまだ人生は続いています。
そんなアラ還おじさんのブログです。

2012年2月2日

粉雪が舞う夜でした
 
病室の窓枠に雪が薄っすら積もり始めた頃
 
親父の風前のともし火が消えてしまいました
 
 
家族が見守る中、心臓が止まってしまいました
 
 
皆、目を腫らして泣いています
 
主治医の先生は今日は帰宅されています
 
宿直の先生が死亡宣告をされました
 
 
それを聞いてまた泣きだしています
 
新しい大黒柱として
私は、人前では泣かないと決めていました
 
 
泣かずに親父の最後を見届けよう
 
親父亡き後、家族の大黒柱となるのだから
 
親父はどんなに悲しい時でも苦しい時でも人前で涙をみせませんでした
 
 
病室から家族が出され親父の帰り仕度が始まります
 
 
自宅に連れて帰ります
 
これは決めていたことです
 
病院に泊まり込み親父が苦しんでいる側で私は六曜(先勝、友引、先負、仏滅、大安、赤口)付きのカレンダーを見ながら、今晩亡くなったら明日仮通夜、明後日通夜、明々後日告別式
 
毎日カレンダーを見ながら考えていました
 
これも親父のマネです
 
ただ、どんなことがあっても家に連れて帰る
 
そう決めていました
 
 
弟K君一家とお袋を先に帰らせて仏間に掃除機をかけて親父が寝ていた布団を敷いておくように指示しました
 
 
これまでの経験から帰り仕度には小一時間かかるはずです
 
その間に葬儀社にお迎えの連絡をします
 
 
そして隣組の組長さんにも親父が亡くなった事を知らせました
 
 
博多の叔父一家が駆けつけてくれましたが間に合いませんでした
 
今日一日の出来事を話しながら葬儀社を待ちます
 
 
事前に連絡をしていたせいもあり程なくして葬儀社も駆けつけてくれました
 
 
そして、親父の帰り仕度が整ったようです
 
看護師さんに病室に呼ばれました
 
そこには今、極楽浄土に着いたかのごとく安らかな顔をした親父がいました
 
 
さっきまであんなに苦しそうだったのに
 
親父 家に帰ろうかね
葬儀社のストレッチャーに移します
 
私は頭を支えて身体や足は叔父さんや従弟の家族、葬儀社の社員の方が手を添えて
 
”せえの”
 
暖かいんです
 
まだ暖かいんです
 
親父が生きていた証しです
 
 
粉雪が舞う中、葬儀社の車に乗せて自宅へ向かいます
 
 
叔父さん一家も車で追いかけてきます
 
自宅に着いた時には11時を回っていました
 
 
 ”お帰り、やっと帰ってこれたね”
 
 
親父の布団も敷いてあります
 
 
葬儀社の方が北枕の方角を磁石で調べて布団の向きを変えます
 
 
隣組の組長さんや隣組の皆さんが集まってくれていました
 
多分、枕経(まくらきょう)があがると思い集まっているんだと思いました
 
 
昔(20年くらい前)は夜中に亡くなってもお寺さんに枕経をあげてもらっていました
 
最近は深夜に亡くなった場合には枕経は朝一にお寺さんに連絡をしてあげてもらうようになっています
 
もちろん地方によって風習は違うとは思いますが私の住む地方では明朝8時にお寺さんに電話をして9時からの枕経となるはずです
 
 
お集まりいただいた皆様に丁重にお礼を言ってお引き取りいただきました。
 
 
長い1日が終わろうとしています
 
 
親父が眠る横に布団を敷いて夜を明かします
 
 
眠れない夜です
 
 
 

伯父さんに伝えなければ

つい先日見舞いに来ていただいた大阪の伯父さんに親父の余命を伝えるのか?

 
また、すっ飛んで来られても
 
今回は、キセキは起きない
 
この頃は日に日に弱っていく親父に付き添う為に部屋にソファベッドを入れてもらって泊まりこんでいます
 
 
午前11時に会社を出て自宅に戻って母を乗せて病院へ向かいます
 
途中の飲食店で早めの昼食を食べ、病院に送って行きます
 
私は一度会社に戻り、また夕方4時に迎えに行き自宅まで送ります
 
 
会社に戻り仕事に戻ります
 
 
6時に退社し自宅へ戻ります
 
 
母と一緒に夕飯を食べ風呂に入って病院に戻ります
 
 
親父が寝着くまで側で起きて付き添います
 
 
何も出来ません
 
 
でも苦しそうな時は背中をさすったり足をさすって声をかけます
 
親父が寝付いたあと日記をつけるのが日課になっていました
 
何故か記録に残さなければいけないと思いました
 
寝るのは3時、4時でした
 
病院の朝は早かったです
 
親父は個室でしたので朝7時くらいまで眠ることが出来ました
 
 
バイタルチェックに来る看護師さんも私を起こさないように気遣ってくれました
 
このころには食事もできません
 
点滴だけで生きながらえています
 
 
朝8時に着替えて会社に行くと言う毎日でした
 
病院から出勤し病院に泊まりこむ生活を10日ほどしました
 
 
私の身体もそろそろ限界を迎えるころ親父の臨終を迎える時が来ました
 
主治医: 「今晩が山です」
 
と言われました
 
不思議と私はそれを冷静に受け止める事が出来ました
 
弟K君に今晩が山だということを伝え、母を連れて病院に来るように言いました
 
そして、大阪の長兄(伯父)に電話をして今晩が山だということを伝え関西在住の親戚に知らせてもらうようにお願いしました
 
 
そして近所に住む叔母さんに電話をかけて同様に九州在住の親戚に知らせてくださいとお願いしました
 
 
後は葬儀屋さんです
 
 
親父の若い頃 同じ会社で働いていた後輩が今、葬儀社の専務さんになっておられます
 
これまでも隣組の葬儀などでお世話になっていました
 
その専務さんの携帯に電話をかけてお迎えの準備をお願いしました
 
 
斎場の下見
実は一昨日、葬儀社に斎場の下見に行っていたのです
 
最近では何やら家族葬なるものが増えてきているそうで、それに合わせたこじんまりとした斎場のようでした
 
建設間なしの新しい斎場でした
 
収容人員はマックス250人
 
1日1組の貸し切りで葬儀ができるそうです
 
親族控え室は10人ほど泊まれるとのこと
 
御斎(おときと読みます)の会場は一度に50人分セットでき、精進揚げも50人くらいはセットできるとのことです
 
会場はここに決めました
 
と言うかお袋によると親父が生前、ここで葬式をしてくれと言っていたと聞いていたのです
 
次は、祭壇です
 
見栄を張るつもりはありません
 
親父も質素倹約を旨とする人でしたので下から2番目の祭壇にしました
 
供花(生花)は無いかもしれないので柩に入れる花が足りないかも知れないと思い祭壇の脇に私と弟K君の名前で1本づつ頼みました
 
 
御斎(おときと読みます)は2種類しかなかったと思います
 
高い方で(1,500円だったと思います)注文しました
 
 
精進揚げの料理も決めて、あとは数だけを前日までに決めるということに
 
当日返しの返礼品は返品も追加も出来るということなので200個お願いしました
 
 
普通は臨終の方が亡くなってから手配するものでしょう
 
 
このやり方は親父から教えてもらった事です
 
大事な人が亡くなった後には悲しみが勝る
 
だから事前に決められるものは決めておけ
 
 
昨夜は虫の息の親父の側で葬式に来てくれる親族の数を数えていました
 
 
親族席の用意、御斎(おときと読みます)の数の基本になります
 
御斎とは故人との別れのお膳のことです
別れの盃と精進料理の箱膳で最後の食事をします
 
これは日本全国でのしきたりではありません
 
私の住んでいる地方のしきたりかもしれません
 
 
MAXを書き出して消去法で消してゆきます
 
予備5個をプラスして決定します
 
この時点では60個の予想です
 
 
最終決定はお通夜が終わった後になります
 
 
冷静に決めることが出来ました
 
ここまでは私の独断です
 
お袋にもK君にも相談なしの所業です
 
 
長い夜の始まり
親父の容態は心臓の強さだけで息をしているらしい
 
あとは心臓が止まるのを待つだけです
 
無駄な延命措置は必要ないと病院には伝えてあります
 
家族が見守る中、手を握り足をさすりながら声を掛けます
 
”もういい、もう頑張らんでいいから”
 
 
がんではありません
 
 
肺炎です
 
苦しそうです
 
肺が身体に必要な酸素を取り込むことができないのです
 
鼻と口から強制的に酸素を送り続けている状態なのです
 
口から強制的に送れば喉はカラカラ状態なのです
 
 
親父が最後に発した言葉を忘れもしません
 
”みず
 
水が飲みたかったのでしょう
 
 
その晩親父は息をひきとりました
 
 
 
享年80歳でした
 
 
 
 
 
 
 
 

兄妹からの見舞

2012年1月21日の大阪の兄弟の見舞いから妹たち(叔父、叔母)が見舞いに来られるようになりました

 

 
親父の酸素吸入は鼻だけではなく口にも酸素マスクが追加されました
 
 
大阪の長兄(伯父)が弟妹たち全員に親父の病状や入院を電話で知らせていただいたおかげです
 
 
私の口からはなんとなく言いづらいことでしたので助かります
 
余命宣告をされたからには、いつかは連絡しなくてはならなかったからです
 
遠方に住む弟妹たちからは見舞金が届きました
 
有り難いことです
 
心配していただいているということなのでしょう
 
 
最後の余命宣告
それから程なく、またも済生会飯塚嘉穂病院からの呼出です
 
 
レントゲン写真を見せられました
 
 
呼出される時のパターンです
 
素人目に見ても検査のたびに悪化しているのがわかります
 
元々じん肺患者ですから肺の3分の1くらいはじん肺硬化していて白いのですが肺炎は残った健康な肺だけを蝕んで行きます
 
明らかに白い影が広がっているのがわかります
 
 ”どのくらい持ちますか?”
 
 
医師: 「2週間、いや10日が山でしょうね」
 
 
さすがに参りました
 
 
主治医から言われたこの事実をお袋と弟K君になんて伝えよう
 
 
この1〜2週間で見舞いに来ていただいた叔父さん、叔母さん、親戚の皆さんにいつ伝えよう
 
 
そして、なんて言おうか?
 
 
まずお袋にはなんて言おう
 
 
50年以上連れ添った夫婦です
 
よく喧嘩もしていました
 
 
でもその夫がまもなく死ぬという事実をお袋は受け止められるのだろうか?
 
乗り越えられるのだろうか?
 
 
それが一番の不安でした
 
 
嘆き悲しんで、落ちこんで体調を崩したりしないか?
 
 
でも事実は伝えなければなりません
 
 
親父の余命宣告された翌日、お袋を病院に送って行く途中のうどん屋さんで
 
テーブルを挟んで座りました
 
うどんが供されるまでに言おうと
 
 ”あのさ、昨日主治医の先生に呼ばれて余命10日って言われたよ”
 
 
泣くのか?
 
 
わめくのか?
 
 
ジッとお袋の顔、様子を凝視します
 
 
どんなだ?
 
 
どんな様子だ?
 
 
以外にも冷静?でした
 
 
お袋: 「しょうがないね、人間一度は死なないかんきね」
 
 
お袋のかけうどんが運ばれてきました
 
 
それを無言ですする母がいました
 
ショックはショックなんだろうな
 
 
弟K君にはメールで帰りに寄るように
 
事実を伝える
 
K君も無言で受け止めるしかありません
 
 
会話少なく帰って行きました
 
 
 
あとは、親戚の皆さんに伝えなければなりません
 
 
 
 
 
 
回顧録(親父の死)

6年前(2012年2月2日)に親父が肺炎で亡くなりました

 

小雪が舞い散る夜でした

 
呆気なく、何が起こっているのか理解が出来ないくらいでした
 
 
人間ってこんなに弱いものなのか??
 
 
入院してわずか22目に帰らぬ人となりました
 
 
2012年1月12日
本人は風邪をこじらせて熱が下がらず注射でも打ってもらおうと病院に行くといいます
 
私が運転してお袋が付き添い、親父がじん肺の治療や検査でかかりつけの病院に向かいます
 
帰るつもりだったのしょうが診察をされた先生が
 
医師: 「肺炎の疑いがありますのでこのまま入院してください」
 
とのこと
 
 ”???”
 
親父: 「今日は帰って連休明けに出直します」
 
とのたまう
 
医師: 「それは出来ません」
 
と譲りません
 
 
親父まさかの入院
本人も付き添って行った私もお袋もまさかそんな大ごとになるとは思っていなかったので親父を入院する病室まで見届けて慌てて入院の支度をする為に自宅へ戻ります
 
何が起こっているのかまだ理解出来ずに病院でもらった入院に必要な準備品リストを元に物品をかき集めて再び病院にとんぼ返りしました
 
もう夕方になっていましたがそのころには親父も観念したようで大人しくしていました
 
 
緊急入院なのに夕食まで出ると言うのです
 
 
まさか、これが親父の人生のエピローグ(序章)になろうとは、このとき誰もが想像できませんでした
 
その時は3人とも1週間もすれば退院できるくらいに思っていたのです
 
 
緊急連絡先は、私の携帯
緊急連絡先は、私の携帯にしました
 
この病院はその昔、県立病院(結核患者の隔離病院)だったのです
 
だから周りには人家の無いような山の中の病院だったのですが、今では結核は治る病気になっていますので周囲も開発されて住宅もたくさん建っています
 
公共交通機関の便が不便なところなもので車で行けば15分のところバスを乗り継いでいくと1時間30分かかります
 
このときはノートに日記を綴っていました
22日間毎日の出来事です
 
とりたてて闘病日記と言う訳ではなく、最初はスケジュール管理の一環として仕事用の手帳に書き留めておいたエピソードです
 
エピソードを親父の余命宣告を機にノートに書き直しておいたものなのです
 
 
日記が見つかりません
親父が亡くなり毎日が忙殺され、やっと初盆を終えてそのノートを読み返そうと探したのですが未だに見つかっていません
 
キャンパスノートのような薄っぺらいものではなく、ノートカバーのついたちゃんとしたものだったのですが6年経った今もみつかりません
 
あの時は親父には直接的にも、間接的にもにも余命宣告はされていません
 
 
親父の余命を聞いたのは私でした
 
 
これは重い宣告でした
 
 
病院からの呼出
病院から携帯に電話が入るのですが正直なところ毎回ドキッとしました
 
看護師: 「先生からお話がありますので病院に来てください
 
との内容です
 
毎回同じ言葉で呼び出されました
 
最初は
 
医師: 「1週間投薬しましたが肺炎を抑える薬 💊 が 効いていません」
 
とのことでした
 
医師: 「今日から薬を変えてみます」
 
医師: 「つぎの薬が効かなければ手の打ちようががありません」
 
 
入院後1週間でこれです
 
 
この事実を一人で聞きに行きます
 
そしてその事実を消化しなければならないのです
 
要約すると
 
入院後1週間投薬した肺炎の薬が効いていません
 
次の1週間違う薬を投与します
 
この薬が効かなければ手の施しようありません
 
と言うことです
 
 
お袋に出来るなら不安な思いをさせたくないと言うのが本音です
 
 
このときは私の胸のうちに留めました
 
 
余命宣告
1週間後また病院からの呼出が
 
 
医師: 「薬が効きません」
 
医師: 「意識のあるうちに合わせたい人がいれば合わせてあげてください」
 
 ”???”
 
 
 ”今、何か言いました???”
 
 
 ”余命宣告ですか?”
 
 
医師: 「このままキセキが起こらなければ・・・」
 
 
医師: 「そうなります」
 
 
風邪のつもりで入院して15日目のことです
 
 
さすがにこの日は弟K君に大事な話があるので仕事の帰りに寄るようにメールをしました
 
 
そして、親父の3人の男兄弟に電話をして余命宣告された旨を伝えました
 
 
親父は11人兄弟です
 
3人の兄弟と7人の姉妹がいます
(この時点H24年1月の時点で妹1名が亡くなっています)
 
遠路の見舞客
福岡市に住む弟(三男)はその日のうちに駆けつけてきました
 
大阪に住む長男夫婦と四男は長男の息子(従兄)が運転する車でその日のうちに大阪を出て夜通し走り、翌日の朝9時には病院に見舞いに来てくれました
 
その時点では親父はまだ鼻からの酸素吸入をしているだけで声が枯れてるくらいでした
 
 
親父は何が起こったのか?と言う顔できょとんとしたまま???
 
 
見舞い客は一見死にそうに無い親父を見て安堵の様子です
 
私もまさかの速さで見舞いに来られると何の用意もできていません
 
一泊の予定でホテルは予約済みとのことでした
 
 
それでは夕食でも一席設けますという事で、夜は弟K君一家も呼んで市内のNホテルの和食レストランでお接待です
 
 
以外に元気そうな親父を見て安心されたようでした
 
 
しかしその1週間後には、また九州の地を踏む事になるとはこの時には誰もわからなかったのです
 
 
 
 
 
今朝は気持ちのよい、いい天気です
食道がんを切ってから天気が悪い日はなんとなく身体の調子が悪い👎ような気がします
 
 
だから今日みたいに天気の良い日はなんとなく身体も軽くなったような気がします
 
 

最近、ちょっと無理して生きています

 
 
ちょっと無理して頑張っています
 
 
どうなんでしょうね?
 
 
社会からリタイヤして治療、療養に専念し年金が貰えるまで預金を取り崩しながらベッドに横たわるように残りの人生を送るのか
 
 
それとも治療、療養をしながら多少身体に負担をかけながらでも誰かの為に自分にしか出来ないことや世の中の役に立つような何かをやり遂げるのか
 
 
たとえそれが多少、命を縮めることになったとしても
 
 
最近考えてしまうことがあります
 
 
自分の命って自分だけのためだけに使っていいのでしょうかね?
 
 
自分の命を最優先で生きてもいいのかな?
 
 
14年間、スタッフと力合わせて頑張って続けて続けてきた会社です
 
 
ここで投げ出す訳にはいきません
 
 
親父の葬儀の時に感じたことがあります
 
 
葬式は人生の通信簿だと
 
 
 
私の人生、今際の際(いまわのきわ)に悔いが無ければ良しとしようと思います
 
 
 
 
 

問診票

正式ながん宣告を受ける前に問診票に

どんな診断でも真実が知りたいか?
という設問がありました
 
 
答えは
 
 ”はい
 
 
同様に家族に真実を知らせるか
という設問にも
 
答えは
 
 ”はい
 
 
単純に”真実の中にしか選択肢はない”思うからです
 
 
最悪、がん宣告を受けとめて余命宣告を受けとめてこその自分の残りの人生だと思いました
 
 
死を宣告されることを素直に受け止められるか?
 
 
簡単な事ではありません
 
 
頭では、理屈では解っているつもりです
 
 
でも心が受けとめられるか?
 
 
今回がん宣告は受けとめました
 
 
余命宣告を受ける事なく術後は順調に進んでいます
 
 
今のところは私の身体にがんはありません
 
 
しかし、がんの再発、転移、発生の可能性は他の人よりも間違いなく高いのも事実です
 
 
余命宣告
最近亡くなった女優の樹木希林さんは、自身が全身がんに侵されている事を公言されていました
 
 
側から見るとお元気そうでがん自体が真実なのか?
と思うほどで、ご本人が”死ぬ、死ぬ詐欺”と言われるほどお元気で仕事も限界までやりとげられました
 
 
想像ですが樹木希林さんは余命を受け入れ残された命を無駄に使う事なく天命を全うされたのではないかと思うのです
 
 
余命宣告はある意味で残酷かもしれません
 
 
あなたは後○年、若しくは○ヶ月しか生きられない
 
 
と医師に宣告されることです
 
 
ポジティブにとらえればあと○年、○ヶ月生きられる保証?を得られたことになりませんか
 
 
私が今年(2018年3月13日)食道に腫瘍が発見された時、最悪の事を想定しました
 
 
食道がんのST(ステージ)Ⅳ(4)で余命を宣告されることでした
 
 
実際はST(ステージ)Ⅲ(3)でしたが・・・
 
 
死ぬ覚悟
3年ほど前から死について考えることもあり、死の覚悟は出来ていたつもりです
 
 
誰もがいつかは死ぬことを
 
 
死ぬ覚悟は出来ていても死ぬ準備ができていない
 
 
終活です
 
 
死ぬ前にやっておかなくてはならないことが沢山あるのです
 
 
長くなりそうなのでこの続きは後日に・・・
 
 
 

SSD換装

家で使っているノートパソコンが最近立ち上がりから遅く3分以上かかるようになってきました

 
スペックはCPUはコアI5、500GBのHDD、メモリ8GBです
 
 
メモリを増設しただけで使っていました
 
 
購入後5年くらいはたちますかね
 
 
日頃はほとんど使ってなかったので気にもかけなかったのですが、このところ食道がんブログを書くようになって立ち上がりの時間やブラウザの検索時間の微妙なタイムラグにストレスを感じるようになって、このストレスががん再発の要因になってはいかんと思い対応しようと思いました
 
 
先日、会社の事務所で240GBのS SDが余っていたのを見つけてPCのHDDを交換する事にしました
 
 
今日は日曜です
 
 
天気は良好、絶好の畑日和ですが今は何もできません
 
 
パソコンのメンテナンスをすることに
 
 
まずはHDDの使用領域200GBを縮小する事からはじめます
 
 
家庭菜園の記録写真を外付けのHDDに移動して、不要なファイルを削除して150GBまで小さくなりました
 
 
HDDをSSDに完全コピーをします
4時間かけてコピー完了
 
 
後はHDDを外しSSDに交換するだけです
 
 
さすがに速いです
 
 
ストレスなく立ち上がります
 
元々、コアi5のCPUにメモリ8GBですから240ながらSSDを乗せれば当然なのですが30秒ほどで立ち上がります
 
 
パソコン屋さんにお願いすると1万円くらいかかる作業です
 
 
会社のパソコン6台をSSDに交換した経験で簡単にできました
 
 
ついでにコードレスのマウスに交換しました
 
 
使い勝手が良くなりました
 
 
無理せずがんサバイバーのブログを更新していきます
 
 
ちなみに今日の昼食は、わんこそば程度のざるそばでした
 
 
夕食は、我が家でとれた紅あずま(サツマイモ)の天ぷら3切れと冷凍イカ天半切れで詰まりました
 
 
空気が抜けるまでこれ以上は、食べれません
 
 
食前の漢方薬は湯に溶いて食前茶として欠かしません
 
 
漢方科の先生曰く、食事を食べなくてもお茶代わりに飲んでくださいとのことで朝昼晩と欠かさず飲むことにしています
 
 
ちなみにツムラの16と116番です
 
 
吐き気止めの漢方薬です
 
 

2018年11月10日

 
今日は土曜日です
 
 
フルタイムのスタッフのMさんだけが出社する日です
 
 
時々昼食を付き合ってもらっています
(セクハラ、パワハラにならない程度に下からお願いしています)
 
 
一人では外食が出来ないので外食がしたい時は彼女に付き合ってもらい私が食べきれない部分を食べて貰っています
 
 
今日は、回転寿司のスシローさんに行きました
 
 
 

前回は穴子寿司  3貫が限界でした
 
 
4貫目でトイレに駆け込みました
 
 
今日は4貫以上を目標に席に臨みます
 
 
まずはおススメのうなぎ  1貫300円
 
 
次は煮あなご2貫、えんがわ2貫
 
 
ここでギブアップです
 
 
皿数でいうと3皿です
 
 
一人で行くとこれで精算となります
 
 
大の大人が普通3皿はないでしょう
 
 
店員さんに不審に思われるのがオチです
 
 
だから一人では行けないのです
 
 
それでも前回よりはいい (前回は2皿)
 
 
お会計はというと2人で1,296円だったかな
 
 
少しづつでも食べれた、前回よりも食べれた事が生きていくことに希望が持てることになります
 
 
今、一人で外食しても出てきた料理の8割がた残してしまいます
 
 
でも食べたいものがあります
 
 
残せばお店の人に失礼になります
 
 
かと言って
 
 
" 食道がんで全部食べれません "
 
 
と毎回言い訳するのも面倒だし・・・
 
 
それなら食べない方が楽なんです
 
 
それでも食べないと前に進めないから
 
 
彼女には感謝しています
 
 
 
 

平成最後の年賀状

来年の年賀状は会社関係、プライベートにかかわらず一筆啓上しようと思っております

 

 

平成最後の年賀状であります

 

 

そして、個人的には来年、還暦を迎えます

 

 

今年の前厄では、食道がんが見つかり2度の抗がん剤治療、食道亜全摘、胃管再建手術、大腸ポリープ切除手術を受けて入院生活は通算50日を超えました

 

 

来年の本厄はどうなることでしょう?

 

 

ショボーン ショボーン ショボーン ショボーン ショボーン ショボーン

 

 

少しづつですが思いを込めて書き始めています

 

ほんの数行の言葉では思いを伝えることはできないかもしれません

 

 

行間の想いが伝わってくれるといいのですが・・・

 

 

おねがい おねがい おねがい おねがい おねがい おねがい

 

 

最初は消せるフリクションボールを使って書こうとしましたが還暦を迎える年でもあり、思いを込めたペンでと思いました

 

 

 ” そういえば親父の形見のボールペン🖊があったはず・・・ "

 

 

滅多に使わないボールペンです

 

 

緑の革製のペンケースに入れています

 

 

すぐにわかるはずです

 

 

でもありませんでした

 

 

会社の事務所で使っていたのですが、がん宣告を受け、抗がん剤治療を始めるときに事務所の机周りを万が一のことがあってもいいように整理したのですが多分その時にどこかに紛れたのでしょう

 

 

そうだ!万年筆🖋を買おう

アマゾンの筆記具サイトを開くと・・・

 

 

 ” んー??

 

 

安い?

 

 

1000円台から5~6000円台まで

 

 

国産メーカーの万年筆がずらりとラインナップ

 

 

私が若い時、まだパソコンがオフコンと呼ばれた時代に、我々サラリーマンが手にした武器はスマホでもなくPCでもなく電卓とペンです

 

 

MAILなどという物もない時代です

 

 

企画書も稟議書もすべて手書きです

 

 

シャープペンシルで書くわけにはいきません

 

 

フリクションボールもありません

 

 

ですから20代から30代前半までは筆記具等に結構お金をかけていました 

 

 

その当時使っていたウォーターマンというメーカーの万年筆は1万円以上したと思います

 

 

それが今や1,000円台から買える?

 

 

すごいの見つけました

 

 

プラチナ万年筆の プレジール 細字 ブルー PGB-1000#56-2

 

 

というやつです

 

 

税込み価格、な な 何と716円です

 

 

国産です

 

 

見た目もちゃんとしていますので話のネタに”ぽちっ”としてしまいました

 

 

翌々日には届きました

 

 

MADE IN JAPANと書いてあります

 

 

 ペン先はステンレス製ですが滑らかな書き心地です

 

 

何枚かしか書いていませんが立派なものです

 

 

716円のクオリティではありません

 

 

びっくり  びっくり  びっくり

 

 

びっくりしました !!

 

 

😵  😵  😵  😵  😵  😵

 

 

思いを込めて一筆啓上仕(たてまつ)ります

 

 

 

新年を無事に迎えられますよう

 

 

 

心を込めて・・・

 

 

 (後日談)

付属品のインクカートリッジはアッというまになくなりましたがインクカートリッジ10本セットも同時に買っていましたのでさっそく交換しました

 

 

書き味は18金のペン✒️先と遜色ありません

 

 

 

洋服の青山のDM

大手紳士服チェーン店青山のDMが届いていました

 
 
がんになるまで私の体型はウェストが3cmほど増えたくらいで、ほぼ20代から体型が変わっていません
 
 
ここ3年スーツなどは買ったことはなく、消耗品としてYシャツ👔を数枚買ったくらいなのですが、ここに来てさすがに体重が10Kgも落ちるとウエストがペコリとひっこんでしまいました
 
 
上着はなんとか着られるにしてもベルトを締めるとズボンのウエストには皺 (しわ ) が・・
 
 
来年は体重も多少戻って来ると思いますが、この冬用にズボンを買おうと思いDM片手に青山
 
 
 ウエストが69cmに
店員さんにズボンが欲しい旨を伝えウエストを計ってもらうとなんと69cmでした
 
 
食道がんの手術前には76cmでしたから7cm減ったことになります
 
 
結果的にウエストの手直しをせずにはけるズボンはないということです
 
 
しょうがないなぁ
 
 
7cm分膨らませるか?
 
 
結婚式の時の紋付を着せ付けてもろう時に腹にバスタオルを巻いたことを思い出しました
 
 
 腹巻買いました
しまむら(衣料品店)に直行します
 
 
店員さんに
 
 
 ” 腹巻ありますか?
 
 
店員さん:「 こちらにあります
 
 
腹巻は子供の頃👶に使ったことがあるくらいなのですがあの頃は毛糸のゴワゴワしたものだったように記憶しています
 
 
目の前にあるそれは小洒落たネックウォーマーの様ないでたちです
 
 
おまけにロゴはEDWINだし
 
 
腹巻だと言われなければまず何物かわからないしろものです
 
 
紳士用は色も黒か紺しかないのです
 
 
Yシャツ 👔 にすけるだろうな
 
 
でもベスト着れば何とかなるか
 
 
値段も780円だしとりあえず1個買いますか
 
 
自宅に戻って早速試着
 
 
ベルトの位置に腹巻をしてズボンをはいてみます
 
 
思いのほかいい塩梅(あんばい)です
 
 
正解、正解
 
 
ちょっと大きめのやつ(76-85)を買ったので腹を締め付ける感もなく下痢気味のおなかにも優しそうです
 
 
 👼 「 なんか かんか いいながら前向きですね
 
 
 
 ” とりあえず今年の冬はこれで越します