皆様お疲れ様です。



以前もブログには

書いた事があるかもしれないんですけど



長男が亡くなって

気持ちがどん底まで落ちて

這うように1年過ごしてきたわけですが



亡くなった直後

この辛い気持ちって一生続くんじゃん!

こんなの生きていかれるわけがない!



という

長男を失った事自体への絶望と

長男が居ない状態で

生きていかなければならないという

未来を憂いた絶望が

頭や心の中でグチャグチャになり

途方に暮れていました。



しばらく経った頃

やっとなんとか生活リズムが出来てきて

絶望感は少しだけ薄れ

悲しくなる事はあるものの

日々穏やかに過ごす事が出来るようになりました。



その時思ったのは


あぁ、こうやって悲しみが

薄れていくんだろうな。


時間薬や自分の考え方で

徐々にだけど心は楽になっていくんだろう。


そしてその頃には気持ちが長男と一緒になったり

感じたり出来るのかもしれない


そんな希望すら持っていました。




そして1年が経ってみて

確かに気持ちが一緒になったり

感じたりする事はありましたが

徐々に楽になっていくという事が

悲しみが消えるという事ではないと気付きました。



悲しみは消えなかった。



そりゃそうなんです

長男を喪った悲しみが消えるなんてありえない

この気持ちはずっと続くんですよね。



でも1年前よりも

今の私は明らかに気持ちは落ち着いています。



それは悲しみとの

付き合い方や向き合い方が

上手になったんだと思います。



気が付けば悲しみって

自分の一部みたいなものなんですよね。



だって

悲しみ=長男ですからね。



その悲しみ(長男)と

時には寄り添い

時にはぶつかり合い

そして時には混ざり合って



なんだかんだ過ごしているうちに

一緒に暮らす術を身に付けた。



そんな感じでしょうか。



そして気持ちが穏やかな時に

私は良く思うのですが



今、心に蓋をしているなぁ〜って



無意識のうちに

少しだけ気持ちを遠ざけてるような



見えないように

聞こえないように



長男とは少しだけ

うす~い線を引いたような

そんな生活を無意識に送っている時があります。




「心に蓋をする」




今まで私は

この言葉をあまり良い意味で

捉えていませんでした。



なんていうか

本当は違うのに

自分の心に嘘をついているような

そんなイメージをこの言葉に持っていました。



本心は悲しいのに

心に蓋をして

悲しくないフリをしているような



平静を装って大丈夫って振る舞うみたいな



酷い時は長男という存在を

無かった事にしてるんじゃないか?なんて

心が安定すればするほど思ったりね



そんな事もありました。



でも今なんとなく思うのは

心に蓋をする事って

全然アリだったんじゃないかという事。



蓋をする=押さえつける

ではなく



蓋をすることで

気持ちが熟成されていくんだという事。



ワインやウイスキーが

樽の中で熟成されて

まろやかになるように



蓋をしてずっと気持ちを寝かせていても

何も変わらない訳ではなく

ちゃんとその中で変化が起きてて

何も進まないわけじゃなかった。



もちろん時々

蓋が吹っ飛ぶんじゃないかってくらい

感情が爆発する事もあるけど



また落ち着くし

さらに熟成は進む



こういう事で良いのかな?って

少しだけ思えました。



この先も私は

心に蓋をし続けるでしょう。



蓋をしても長男を忘れるわけじゃない

これからも一緒に生きていくって

思えるから大丈夫だと思います。




久しぶりの朝日晴れ



最後までお読みくださり

ありがとうございます。










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