Hard Workin', Mr.Dynamite, Jaaaaames Brown !!!!! | What's Entertainment ?

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映画や音楽といったサブカルチャーについてのマニアックな文章を書いて行きます。

ポピュラー・ミュージックの歴史を顧みた時に、さまざまな節目、絶大な影響力を誇ったミュージシャンの存在がある。

ただ、ロックであれ、ソウルであれ、一つのジャンルが確立するのには、幾人ものミュージシャンやバンドが有機的に絡み合って、大きな流れになるのが常道である。
ロックンロール、サーフィン-ホット・ロッド、ブルースロック、サイケデリックロック、プログレッシヴロック、ハードロック、スワンプロック、パンク、スウィートソウル、ノーザンソウル、サザンソウル、ディープソウル、ニューソウル、ブラックコンテンポラリー、ラップ、ヒップ・ホップetc. …。

しかし、音楽ジャンルの中で唯一、たった一人のミュージシャンの力だけで確立されたものが存在する。ファンクである。

そして、それを成し遂げたミュージシャンが、今回の主役「ゲロッパ」でおなじみの、ジェームズ・ブラウンである。

35mmの夢、12inchの楽園

James Brown(1933.5.3-2006.12.25)

ジョージア州バーンウェル生まれ。父親は貧しい肉体労働者で、母親は彼が4歳の時に家を出た。粗暴で博打好きの父親と袂を分かち、彼は6歳の時にオーガスタのおばに引き取られた。おばは密造酒と売春婦で生計を立てるヤサグレ者であった。そして、彼も靴磨き等の肉体労働でおばの暮らしを助けるようになる。

音楽に目覚めたのも、彼は早かった。ブルースやゴスペルを歌い、アマチュア・コンテスト荒らしをして名を馳せた。しかし、音楽活動の一方で、彼は車の窃盗を重ね、15歳の時に2度目の逮捕。8年から16年の不定期刑を言い渡されて、彼は刑務所送りになってしまう。
ジョージア州青少年訓練専門学校に送られた彼は、19歳で仮出所となるまでの3年間に、そこでさまざまな経験と出会いをすることになる。

彼は刑務所内でも、ゴスペル・カルテットやバンドを結成して音楽活動を続ける。そして、後に彼の片腕となる朋友ボビー・バードともこの時期に出会っている。ちなみに、ボビー・バード自身は刑務所に収監されていた訳ではなく、音楽活動を通じて塀越しに出会ったそうだ。

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仮出所したJBは、ボビー・バードの家に身を寄せることとなる。彼は肉体労働に従事する傍ら、音楽活動に熱中していく。ゴスペルからスタートして、ボビーとともにリズム&ブルースを演奏するようになる。そして、彼の音楽活動は、次第に周囲に認知されていく。

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彼の音楽人脈の中にリトル・リチャードのマネージャー、クリント・ブラントリーがいた。ブラントリーがJBのバンドのデモ・テープをレコード会社に売り込んでくれたのがきっかけとなり、その曲「プリーズ・プリーズ・プリーズ」で1956年にキング・レコード傘下のレーベル、フェデラルからデビューを果たす。この曲は、R&Bチャートの6位を記録し、JBは幸先の良いスタートを切る。
後に、The Hardest Working Man In The Show BusinessやSoul Brother Number 1と称される、彼の最初の一歩である。

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このデビュー曲は、ゴスペルをJB流に解釈したものであったが、キングの社長シッド・ネイザンには全く理解されなかった。次のヒット曲「トライ・ミー」が1958年にスマッシュ・ヒットするまで、彼は苦難の日々を過ごす。しかしこの曲以降、彼は破竹の勢いで黒人音楽界をリードしていくことになる。
そして、レコード会社の反対を押し切る形で1962年にリリースした『Live At The Apollo』というライブ盤により、ついに彼の名声は全米規模のものとなる。このライブ盤は、今聴いても手に汗握る白熱のステージが存分に味わえる。名盤である。

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そして、彼の大きな転機となる作品が生まれる。1964年3月に録音された「アウト・オブ・サイト」である。この曲では、ギターもカッティングのみで全ての楽器がメロディではなく、リズムを刻むアレンジになっていた。JB自身のボーカルも、もはや歌というよりシャウトする感じで、パーカッシヴに展開されている。
この曲が「ファンク」と呼ばれる音楽スタイルの原点である。ファンクとは、16ビートのダンス・ミュージックであり、ギターもカッティングでリズムを刻む演奏がメインとなり、ベース、ドラムスといったリズム隊が前面に出るのが特徴の音楽スタイルである。
しかも、JBは自らの声さえもシャウトでバックと渡り合い、そこに強力なホーン・セクションが加わる。

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この「アウト・オブ・サイト」以降、「アイ・ガット・ユー(アイ・フィール・グッド)」('64)、「パパのニュー・バッグ」('65)、「コールド・スウェット」('66)、「レット・ユアセルフ・ゴー」('67)、「ゼア・ウォズ・ア・タイム」、「アイ・ガット・ザ・フィーリン」('68)、「セイ・イット・ラウド-アイム・ブラック・アンド・アイム・プラウド」、「リッキング・スティック-リッキング・スティック」('69)、「セックス・マシーン」('70)、「スーパー・バッド」('71)、「ソウル・パワー」、「メイク・イット・ファンキー」('72)といったファンクの傑作を彼は量産していく。

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JBは、ミュージシャンとしてのみならず、バンド・リーダーとしてもオーガナイザーとしても大きな才能を持っていた。

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彼は、レヴュー形式のショーを行い、バック・バンドのミスに罰金を科してまで、完璧なステージングを目指した。彼のステップ、ダンス、マイク・パフォーマンス、マント・ショーなどは後続のミュージシャンに絶大なる影響を及ぼした。スライ・ストーンもジョージ・クリントン率いるP-Funk軍団も、プリンスも、皆、彼の存在なくしてはありえない、と断言していいだろう。

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そして、JBはピープルというレーベルを立ち上げ、そこから彼のファミリー(JB's、メイシオ・パーカー、スウィート・チャールズ、リン・コリンズ等)の作品を発表していく。

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彼の元には、ジョニー・オーティス・ショーにいたジミー・ノーレン(g)、メルヴィン・パーカー(ds)、メイシオ・パーカー(ts)、フレッド・ウェズリー(tb)、ブーツィ・コリンズ(b)、フェルプ”キャットフィシュ”コリンズ(g)といった有能なミュージシャンたちが集った。
しかし、JBの暴君ぶりもあり、頻繁にメンバー・チェンジが行われていた。

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JBは最後まで現役であり続けたが、彼が真に革新的であったのは、1972年頃までである。最終的に、彼はシングル200枚以上、アルバム80枚以上を発表している。膨大な数である。
ちなみに、山下達郎さんは有名なジェームズ・ブラウンのコレクターであり、彼は「JBのシングル盤なら、僕が日本で一番所有している」と豪語されている。


とにかく途方もない数のレコードをJBはリリースしており、彼をこれから聴こうとする人は、途方に暮れてしまうことと思う。しかし、彼はかなり無計画というか、いい加減にアルバムを乱発する傾向があったので、かなり多くの駄作も発表している。
よってJBを聴くなら、僕としては迷わずベスト盤とライヴ盤をお勧めしたい。ベスト盤も沢山出ているが、どれに手を出しても間違いない。


参考までに、彼のお勧めのライブ盤を挙げておこう。

Live At The Apollo('62)
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Live At The Apollo Volume Ⅱ('68)
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Sex Machine('70)
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Revolution Of The Mind('71)
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Love Power Peace-Live At The Olympia,paris,1971('92)
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Say It Live And Loud-Live In Dallas 08.26.68('98)
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とにかく、彼のことを「ゲロッパ」と叫ぶ「おばさん頭」の変な黒人のおっさん、としか思っていない向きの人にも、先入観を捨てて彼の作品に接して欲しい、と願う。

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そこには、まさに「魂の革命」の音楽が息づいているからである。