写真が趣味のかたにとっては耳ざわりと思うが、わたしは写真を撮るということがひどくきらいである。

 

旅さきとか身辺雑記的にしきりと写真を撮るひとはおおいが、そういうセンスがわたしにはない。インスタグラムにアップするため必要以上に写真を撮る若者も激増している。まぁ、スマホ = デジカメだから「写真を撮る」なんて意識なんてそもそもないのかもしれない。

 

 

どうしてわたしは写真を嫌うのか。

 

 

人生の一瞬というのは日常的なこと-たとえば朝に顔を洗うとか家族と夕食をとるとか、あるいは月が輝いているとか、そういうあたりまえにあることですら一度かぎりのものなので、同じようなことは毎日あるが同じことは二度とない。したがって人生とはかけがえのない出来事の連続なのである。

 

…だからこそ写真にのこすのだ、そう思われるかもしれない。だが、そうではない。

 

 

むかしFM放送でながされる名だたる音楽家の演奏をわたしはさかんに録音していたのだが、番組がはじまり録音を開始するまでは神経を研ぎすませ全身が耳になったかのようなくせに、いったん録音をスタートすると「どうせ録音しているのだから」と放送を聴くことなくほかのことをしていたものだ。そしてときどき演奏の進行度合いとテープの残り時間などを確認し、無事に演奏が終了すると録音を終えカセットテープをケースにいれ「あとで聴こう」そう思いながラックにしまい込む。翌日には別の演奏家による放送があるからまた同じことを繰り返すのである。

 

 

録音をした、という事実だけでもう満足してしまい本来の「聴く」という行為をおこたってしまうのだった。いや、放棄していたというほうが近いね。

 

 

実をいうとわたしは小学生のころはませた写真小僧で、親に泣き付いてニコンF2とペンタックスSLを買ってもらい、そのときどきの明るさなどから自分のカンで露出とシャッタースピードを判断していた。

 

いろいろなものを被写体として撮りまくっては月刊の写真雑誌に送ったりもしていた。そしてここぞというときには、わざとコダックのトライX400で撮ったりもした。さきほどの音楽録音になぞらえていうなら素晴らしい景色を「見る」のではなく「撮る」ほうに集中していたわけである。

 

 

なにがきっかけとなって「聴く」ことを「録る」ことにすり替えてしまったと気付いたのかは忘れたが、「録る」ことや「撮る」ことがその瞬間にすべての神経をそそぐという切実な体験をわたしから取り上げてしまった。つまり「脳裏に焼き付ける」という人間の高度な意識的活動をしていなかったわけである。

 

 

「文字」という便利な道具を発明したがゆえに人間は記憶するというたいせつな行為を忘れてしまった、ソクラテスはそう語った。おもしろいことに本居宣長もおなじようなことを述べている。

 

このことはいろいろと敷衍できる。

 

戦前の苦労人だった母は、だからいっけん便利になると思われるようなちょこざいなモノや考えかたを徹底的に嫌悪した。それでいて少しも頑迷固陋なところなどなく、おそろしいほど進取の精神に満ちていた。

 

 

とてもわたしのおよぶところではない。

 

 

もうすぐ母の命日だ。

 

 

 

 

 

鹿島茂氏の「ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて」はさいきん読んだ本のなかでも抜群におもしろかった。

 

 

なにしろ小林秀雄という一流のネタを切れ味するどい包丁で叩きまくるのだから痛快である。あの難解な小林の文章はいまでもわたしを苦しめているのだが、そしてそれはわたしの知力が足りないからだと思い続けてきたのだが、鹿島氏は、小林秀雄の文章を理解できるほうがどうかしていると断ずる。

 

 

日本語としても支離滅裂だし論理もなにもあったものじゃない。あれはただ単に小林秀雄が「どーだ、おれはこんなにいろいろものを知っている超インテリなんだぞ、まいったか!」といいたいだけだ、というのである。いやはや、スゴイ意見だね。

 

 

おもいかえせば中学生のころ、ブルックナーと小林秀雄を理解することが、学校の成績の良し悪しと関係なく時代の先端をいく恐るべき子供たちの仲間入りとされており、いちおうクラシック音楽を愛するわたしとしては半強制的に彼らからブルックナーと小林の理解をもとめられていたのであった。この2人を解さないというのはすなわちバカだという高度ないじめのような雰囲気のなか、帰宅しては巨大な軟体動物のような音楽に集中し、レコードの針をあげるとつぎは小林秀雄の文章と格闘しなければならなかった。

 

 

フランス文学など触れたこともなかったので小林の語ることは二重にも三重にも不可解であったが、だからといって「徒然草」や「西行」もよくわからず、わたしの好きなモーツァルトにおいてはわたし自身を疑わなければならない始末であった。

 

つい先ごろ何十回目かの「モオツァルト」挑戦をこころみ、けっきょくのところ小林秀雄はモーツァルトについてなにも語ってはいないじゃないか、そうおもった。

 

 

道頓堀をさまよっているうちにK.550のテーマが頭のなかで鳴ったというレトリックにだれもが幻惑され、果ては「tristesse allante(走るかなしみ)」などとすごい表現があらわれ、しかも自分の心持ちを言い当てられて驚いた、そう書かれるとそのクインテットを知らなかったことと相まってモーツァルトを聴くのが憂鬱になったものである。

 

 

小林秀雄が抽象的な表現を好んで書いているという批判は初期のころからあり、中野重治や坂口安吾のものが有名だが、こんかいの鹿島茂氏のように分析的かつ理性的な指摘は初めてだろう。

 

この本のおもしろさは単に小林の文体についての論評だけでなく、かれと同世代の日本人たちが日本近現代史の狂気を演出したという興味深い仮説を展開する。膨大な知識と教養に支えられた、久しぶりに知的好奇心をくすぐってくれる良書だった。

 

 

 

 

 

8年のあいだ毎週語学学校にかよいフランス人のインテリたちとかかわってきたので、留学というには無理はあるものの、それでもフランス人の考えかたの方向性、あるいは発想などはそうとうの影響を受け、その知識をもってパリに2度いったのでわたしの精神の半分ちかくはフランス化している。

 

 

ここでいう「フランス化」というのは無理やりフランス的な発想をしようと自分を強いるのとは逆で、しぜんとフランス的な思考回路になる、という意味である。

 

 

具体的な例をあげよう。

 

 

スーパーなどのレジ係りの対応がひどく異様にうつる。地下鉄のなかが、あるいはホームで待つひとたちがひどく温厚かつ静謐である。車内アナウンスもやたらと丁寧かつ親切などなど、簡単にいうなら、とても他人にたいして優しく思いやりにみちているのである。

 

 

さいきん、ごくたまにではあるが、そういう心づかいが煩わしく感じられるときがある。あるいは過保護といいなおしても伝わるだろうか。

 

 

もちろんわたしもれっきとした日本人だから礼にたいしては礼をもって応えているが、あたまのどこかで「こういうことに意味あるのかなぁ」という声がする。「お客さまは神さまです」という言い回しが流行ったのはもうずいぶんと昔のことだが、いまではそれが常識となり客のほうも「こっちは客なんだから」という居直りがある、と感ずる。

 

 

以前にも書いたとおり、日本ほど安全かつ安心な国はないだろう。そして財布を落とした馬鹿なわたしのもとに、現金は抜かれていたものの、大切にしている財布がクレジットカードともども戻ってきたのだから、日本にたいしてそんな悪態をつくのはおかどちがいなのはよく判っている。

 

 

しかし、である。

 

 

上述のごとき過度なサービス競争のために、まず宅配の領域が破たんした。これは氷山の一角であり「おもてなし」という美名によって犠牲を強いられている業種はいくらでもある。

 

パリで買いものをして何回も不快な経験をしたが、いまから思えばそれはわたしのメンタリティが多分にまだ日本人のそれだったために起きたので、現在ならあのときほどの不快感は湧きあがらないだろう。

 

 

さらにつけ加えるなら、わたしは日本人であり、いくらフランス人に親日家が多いなどといってもそれは一部のことであり、かれらが東洋人を見くだしていることは間違いのないことである。

 

 

これはもうどうしようもない。まさに諦めるほかはない現実なのだが、こういう被差別側のセンスというのはうっかりすると排他的な攻撃的ナショナリズムに変化してしまう - ちょうど幕末の攘夷派のように。

 

 

ヨーロッパではいま極右が台頭してきている。まだなんとか抑えこめているが、なにか別の火種がこの先あったとすると、第3次世界大戦になってしまうだろう。

 

 

きたるべき衆議院選挙は、たかが東洋の島国のこととはいえ、そういう危うさを念頭においてわたしたちは主権在民という権利を行使しなければならないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

かつて営業のマネジャーをつとめていたころ、月に2回の「業績確認会議」というのがあり、国会の予算委員会に招致される官僚のごとく膨大な資料を持参し、暗い気持ちで本部事務所までかよったものだ。

 

そのときの支店長というのが「結果至上主義」で、いいことをしようがブラックなことをしようが本社営業本部から示達された支店の予算を達成してさえいれば○で、大学時代は柔道部だったという熊のごとき体躯で計画予算に達しなかった課のマネジャーを恫喝し、ことばによる暴力 - いまなら100%のパワハラで叩きのめすのだった。

 

ナンセンスのきわみなのだが、おそらく今日現在でも企業の営業最前線というのは、大企業・中小企業にかかわらずそう変わっていないのではないだろうか。



業績が思わしくない営業課長が寝技で締め上げられて虫の息になると、次の月の業績保証策の討議となる。

それとて選択肢はいくつもなく、どれもが賞味期限切れの施策なのだった。過去に何回も実施してたいした成果のあがらなかった施策が翌月の方針となる。

 

そのバカバカしさとみずからのふがいなさにいつも辟易していたわたしは、じぶんがマネジメントできる限りではいっさい方針展開などという茶番はおこなわなかった。メンバーの意思を邪魔するようなことはつとめてせず、小さなことでもおおげさに褒めまくったものだ。恐怖政治の対極であるが、そうすると面白いことに業績は安定飛行するのである。乱高下しなくなり、メンバーが自身であたらしいアイデアを考える。チャレンジをする。結果として職場はおだやかで、ベートーヴェンの第六シンフォニーのような景色となるのだった。

 

そういうわたしにたいする批判や叱責もおおかったが、ベートーヴェンがわたしをいつも支えてくれていた。

 

 

 

 

 

 

きょうは月一回の精神科通院日だった。

 

じつはこのところ眠剤をのんでも効かず、浅い眠りから目覚める日が続いていて昨晩も一時間ごとに覚醒しては意味のわからない夢にふたたび引き戻されるという、書いているだけで不快な夜を過ごしていたのだった。

 

診察は10時30分からだったので9時30分にいえを出れば充分なのだが、なかなか起き上がる気になれずこころのなかで

 

 「?…?」

 

そう感じたが、なにしろ眠剤や坑うつ剤を処方してもらわないとストックがないから蛮勇をふるってなんとかベッドをでて、ほう髪・無精ヒゲという典型的なバガボンドの風体でドアを閉めた。駅について電車を待っているあいだに鼓動が激しくなり頭のなかがガンガンしてきた。呼吸が浅くなり正体不明のとてつもない不安感で立っていられなくなり、さいわいベンチが近くにあったので、普段ならゼッタイに座らないのだが溺れるものが反射的に浮遊物に手をかける感覚でへたり込んだ。

 

敬愛する作家の小説中に作者本人がかつてパニック障害を発症したときの様子をなんかいも克明に書いており、わたしはかれのすべての作品を熟読しているゆえ「ああ、オレはいまパニック障害の発作を起こしているんだ」と理解した。だが、理解しただけではわたしをわしづかみにして揺さぶっている姿の見えぬ化け物を追い払うことはかなわず、額から流れでる冷や汗をぬぐいながら(こんなことは初めて)クリニックに入った。

 


主治医はひとめでわたしの不調を察し、脈をとった。いままで見たことのない真剣な顔つきで時計の針とわたしの頻脈のかずを追っているドクターを前にし、助かった、そう思った。主治医は

 

 「ちょっと待っていてください」

 

そういって診察室からでで紙コップにはいった冷たい水と錠剤をもって戻ってくると

 

 「はい、まず飲んで」

 

おだやかに渡してくれたのである。そして眼を閉じて両手を自然と前に出すよううながした。数秒後に「もういいですよ」といわれ、眼をあけると穏やかな表情で「なにかあったんですか?」と尋ねられた。

 

いくつかの問答のあとにドクターは、たしかに脈は速いが心臓疾患などによる不整脈がないことを告げ、なんらかの心的ストレスによるパニック発作だ、と診断された。

 

ああ、やっぱり。

 

わたしは安堵した。

 

 

 

 

わたしの部屋は北側にあり、板橋区の集合住宅上層階なので窓から見える景色は関東北部のそれである。

空気が澄んだころだと男体山や赤城山、榛名山、そして浅間山まで遠望できる。この山々があるあたりは夏の夕暮れともなればだいたい雷雨となるので稲妻の閃光を見ることしきりなのだが、以前は「梅雨明け10日」といって太平洋高気圧が前線を押しあげドッカリいすわると夕立なんて発生しなかった。だから高山に登るものはその時期をねらって行ったものである。

いまこの瞬間も北のほうは怪しげな雲におおわれて、ときどきゴロゴロという音が聞こえてくる。

奥穂高岳の直下でわたしが遭難しかかったのは2000年の8月上旬だったから、あのころから気象に変化がおき始めていたのだろう。事実そのころは毎夏たかい山に登っていたが、梅雨が明けてからの2週間ほどは天候も安定していて心配するのは樹林帯でクマやマムシに出くわすことだった。

以前にも書いたけれど、わたしが小学生から高校生のころの東京は夏でもスイカやトマトは氷水にひたしておけば充分に美味かった。

多くのひとが勘違いしているので言っておくが、夏の快・不快を左右するのは気温ではなく湿度である。とある実験施設で「気温25度・湿度90%」のへやと「気温35度・湿度20%」の実験室にはいったことがある。それはもう乾いたタオルとぬれ雑巾で顔を拭かれるほどの差異があり、湿度の陰険な攻めかたに腹立たしくなった。

天気予報では最高気温と最低気温のことをいうのはお決まりであるが、ハッキリいってナンセンスだね。無いよりはましかもしれないが、湿度の加減を伝えてくれたほうがわたしはありがたい。


まぁ、いずれにせよ地球の環境は決定的に変わってしまったので、このさき生きていくのには今までになかったイノベーションが必要だろう。

「徒然草」のなかに家のつくりは夏を基準とせよ、というのがあった。当時ですらそうだったのだから、いまの日本の気象状況を兼好が体感したらどう云うだろう。










 

 

暑いね。

その日も東京の最高気温は34度あたりだったと思うのだが、10時ころに朝・昼兼帯の食事をとったあと散歩にでかけた。ふだんであればそのまま昼寝してしまうけれど、なにしろ4ヵ月も自宅に引きこもっていたから、身体を動かさないとダメだよなぁ、というとても消極的な発想で家をでた。

その時点では行き先など決めていなくて、まぁ自宅近辺をふらつくか、と思っていたのだが、なにしろ暑いからただふらつくだけでは面白くないと思い、都営三田線に乗った。神保町に着いたとき、これも考えなしに電車を降りた。神保町はわたしが中学生のときまで暮らしていた街なのでいわば故郷である。だからこの駅で降りたのは帰巣本能のようなものなのかもしれないが、ここには頻繁にきているのであらためて行くべき場所があるわけでもなく、あてもなく歩いていた。

そのうちにふと「古戦場めぐりでもしてみるか」そう思った。ここでいう「古戦場」というのは歴史的旧跡のことではない。

わたしが仕事でいちばんつらかったころを過ごしたところへ行ってみよう、というわけである。地名でいうと大手町と赤坂。大手町は担当していた企業がある場所、赤坂のほうはその当時の勤務地である。そこでの5年間はとにかくつらく、若かったからしのげたが今だったら完全にノック・アウトだろう。なにしろ地下鉄の赤坂駅で事務所に戻るのが嫌でホームのイスに1、2時間ほど座り込んでいたほどであった。それも2回や3回ではない。心拍数があがり呼吸が浅くなって苦しみながらの逃避行なのだった。

ということで古戦場ツアーが始まった。

神保町から大手町はどうということのない距離である。皇居前にでて堀の水面をながめながら歩いているうちに気象庁が見え、ほどなく古戦場のひとつに至った。やはり感無量である。記憶の底に沈殿していた顧客とのさまざまなやり取りのいくつかが浮かびあがってくる。その企業は世界中に拠点がある大企業なので、記憶に登場するひとたちは遠い異国にいるのだろうな、わたしは老いて何も変わっていないのに。

しばし過去を彷徨したあと、ふたたび現実のみちを歩きはじめる。

大手町から日比谷公園をぬけて虎の門方面に進路をとった。外国からの旅行者がおおい。かれらから見たら汗まみれになってただ歩いているだけの東洋人はどう写るのだろう。

その日のわたしの服装はショートパンツにボタンダウンシャツ、そして素足にデッキシューズだからおかしくはない。まぁ、だれも気にもしていないことはあきらかだ。

工事中の虎の門病院のわきをとおり溜池へでた。

このあたりまでくると、ほふく前進を必死にやっていた若き自分が見えてくる。交差点をわたりしばらくして斜め左に曲がる。すこし進むと政治家たちが会合に使うであろうひっそりとした料亭がそこかしこにある。そういえばこの近辺のクリニックに勤務中に来て点滴を受けたことがあったな。あれはなぜだったか、忘れてしまった。まぁ、ここは戦場でわたしは兵士だったのだから点滴ぐらいするよな。

そうこうするうちに、かつてのオフィスのまえに来た。いまはべつの企業がはいっているが建物はそのままである。地下鉄赤坂駅から直結するこのビルも経年のためかなんだかみすぼらしくみえる。あんたも歳をとったんだねぇ、かつての戦場跡に声をかける。当時ここのオフィスには日本を代表する超大手企業や中央省庁を担当する営業の精鋭たちが集まっていたのだ。まぁ、ちょっといやな表現になってしまうが、わたしの勤めている会社の花形集団だったわけである。その部門で仕事をするということは、あの当時全国の営業マンの最高の名誉だった。だからこそ重圧もおおきく、つらかったのだが、しかしながらそのおかげでごくわずかの人間にしか体験できない世界を生きることができたのだった。

なにごとにたいしてもこらえ性のないわたしは、そんなあこがれの職場に5年でネをあげた。

この営業部隊のトップに、わたしが元いた部隊 -並の営業マンがいるふつうの都内の営業所に戻してほしい、そう直訴したのだった。なりふり構わないたびかさなる懇願、哀願のおかげで数か月後に異動の辞令がでた。異動先はわたしの想像もしていなかった熊谷という地の、しかも営業マネジャーだったのである。

とうじの住まいからの距離だと熊谷に単身赴任という選択肢もあったが妻が反対した。

あんたが独り暮らしなんかしたら100%オンナと同棲する。現地妻をつくること必定というわけである。なんとも鋭い観察で、きっとそうなっていただろう。そんな理由で新幹線通勤という、これもまた刺激的な形態となったのだった。

 


 

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近くまできたので、ほんとうに尊敬する勝安房守さまにご挨拶して古戦場をあとにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「過去に眼を閉ざす者は、未来に対しても盲目となる」

いまや人類の至宝と評してもいいであろう名言である。かれ、ヴァィツゼッカ―氏の父親はほかならぬナチスの外交官だった。ドイツは過去の2度にわたる世界大戦のいずれも敗戦国でありながら、現在のEUにおける事実上の盟主でありユーロ経済圏の支柱である。さらにはれっきとした軍隊を有しNATOの加盟国でもある。

わたしは国際政治学者でもなければ歴史学者でもないが、それにしても国際社会における「旧敵国」同士の日本と較べると彼我の相違にいささか驚かない訳にはいかない。

ドイツはかつての残虐行為に対して徹底的な自己批判をし、冒頭のような箴言を大統領みずからが演説するという国家的反省をおこなっている。そのことが日本との国際的地位の差異を生んでいる ― そう理解しているひとがいるとしたらそれは感傷的で安易に過ぎる。

ヨーロッパの国家間あるいは民族間にはたらく力学あるいは優越・劣等の意識は複雑かつ錯綜して血ぬられた歴史のうえに成り立っているので、足したり割ったりなどの算数レベルでは論ぜられない。さらにそこへ宗教という日本人には金輪際理解できない要素がからんでくるのでわたしたちにはぜったいにかの地のメンタリティー(もちろん本音のもの)など理解できるは

ずがない。

 

そういう侵略と征服のくりかえしがヨーロッパの歴史の核心なので、こんなことをいうと「ちゃぶ台がえし」めいて本意ではないのだが、ヨーロッパをわたしたち日本人は永遠に理解できないだろうと思う。ただ誤解してほしくないのだが、ヨーロッパのことごとくが善あるいは進歩的であり日本がいつも悪かつ後進的などと単細胞的なことをいいたいのではない。

 

ただ、冒頭のような認識をわたしたち日本人がひとしく共有しているかと問われたら、首を立てには振れないだろう。

日本がどうしてドイツのような国際的地位をえられないのか。それはわたしたち日本人が自国の歴史をふくめた文化を理解していないからである。これは国粋主義と紙一重の、たいへん理知的な認識なのだが、それを持たないかぎり国際社会での存在を主張できないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自然は生きものではない。でも生きものは自然のなかにいる。

 

コトバという高度な道具を習得してしまった人間という生きものは、だから森羅万象を人間にみたてて説明するという奇策をあみだした。これはおおいに有効で、ほんとうはよく判っていないことでも判った気になってしまう。いわく「ガンが怒りだした」とか「こころが騒ぐ」とか。

 

だが、おそらく最もひんぱんに用いられるのは天候を擬人化することではあるまいか?

 

自然科学の領域でわたしたちの日常にいちばん影響するのは気象だから、説明するほうもされるほうも人間にたとえることで理解あるいは納得感が強くなるわけだ。

 

むかしは見上げるものだった空も、技術進歩のおかげで見下ろすことができるようになった。天気予報の確度はそのことでおそろしく高まったわけだが、だからといって自然現象が安易になったわけではない。天気予報をまるでクイズか何かのようにあつかっているニュース番組があるが、冗談もいいかげんにしておかないととんでもないしっぺ返しを喰らうことになるだろう。

 

相手は感情や意思などない大自然なのである。パスカルのいうとおり、人間を倒すことなど自然にとっては何ほどのことでもない、などと人に擬しているわたし自身が恥ずかしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数年前に引退してしまったが、アメリカに「スペース・シャトル」という宇宙ロケットがあったのをご記憶のかたも多いだろう。ロケットとはいっても地球に戻ってくるときはジェット機のようにみずからの翼とエンジンで着陸する、あれである。それ以前の、落下してくるのとは別ものなのが画期的だった。

 

スペース・シャトルは5台あってそれぞれ名前がついていた。わたしは「脳トレ」の意味もあって暗記しており、ときどき復唱していたものである。たいてい4つまではすらすらと出てくるのだが最後の1機種名が思い出せないことが多かった。最後まで出てこない機種名はそのつど異なるのだから面白い。

 

エンデバー、コロンビア、アトランティス、ディスカバリー、そしてチャレンジャーの5台である。きょうはいっきに出てきたね。会社をずっと休んで、本を読んだり音楽を聴いたりと脳を活性化しているからかもしれないな。

 

この名前にはNASAのひとたちの熱い思いがそれぞれ込められているので、おろそかにしてはいけない。わたしは「チャレンジャー」がいちばん好きである。なぜならわたし自身が死ぬまでチャレンジャーでいたいから、である……なぁんていうと「うつ病で休職している弱虫がよくいうぜ、笑止千万なり!」と揶揄されそうだが、そうでもないのである。弱虫だからチャレンジャーたらん、という事実もあるのでこころの弱いものをあなどってもらって困る。

 

わたしがこころを病むにいたった経緯は職場でのことで、いまでこそ社会的には葬り去られてしまったものの、なになにまだチャレンジャーでいようという気概はすてていない。

 

具体的な例をしめそうか。

 

わたしの周囲では定年再雇用されるひとが多くなってきた。そのいちばんの理由は巷間いわれているとおり高齢化社会というわけだが、高齢化=再雇用という等式は成り立たない。なぜなら定年ののちべつの仕事に就くという選択肢も存在するから。再雇用を選択した先輩諸氏に聞き取り調査をした結果では、

 

①この仕事、あるいは職場に慣れているから。

 

②いまから新しい環境でスタートするのはキツイから。

 

③「ハローワーク」に行ったけれどなにか資格がないとこの歳では職がない。

 

だいたいそんなところに収斂する。

 

たしかに60歳からまったくあたらしい環境に飛び込むのは勇気がいる。だが、わたしの信条は「つねにあたらしいものを求める」というものであり、じっさいに50歳からはじめたフランス語習得のおかげで世界観や価値観の変革、自身のパラダイム・シフトに成功したという強烈にして刺激的な経験があるので、何かをはじめるのに年齢は関係ない、といいきる自信はある。ふだん大人しくしているしている輩ほど本気になると怖いのであるよ。

 

さて、上述の再雇用の理由のなかで①と②は精神論で片がつくものなのでいわば「自己都合」である。問題は③だ。

 

妻は服だの日用品だのを100%ネットで購入している。まいかい段ボール箱をつぶし緩衝材を小さくまとめるのはわたしの役目で、けっこうストレスになる。でも、そのおかげでネット・ショッピングの実情を皮膚感覚で体験していたので昨今いわれている「宅配クライシス」はかなり前から予想していた。

 

AIを搭載したロボットが倉庫のなかを動き回るというのはまだ少しばかり先のはなしか、あるいは超大手企業の管理するところでなければ不可能なのであり、とうぶんは人力に頼ることになるだろう。そう思ったので昨年末にフォークリフトの運転免許を必死のおもいで取得した。これはキツかったね。途中でやめようかとも思ったけれど、妻に尻を蹴とばされていったのである。ここでの体験はとても面白かったのでいずれ書きたい。

 

ということで、公的な資格でいうと今のわたしには「ホームヘルパー2級」、「普通自動車2種免許」→これもキツかったね、「フォークリフト運転操作免許」ということになる。おそらくあなたはフォークリフトと聞いてもピンとこないかも知れないが、よく注意してみるとけっこう身のまわりで動いているのである。

 

ながながと書いてしまったが、つまりわたしはいつまでもチャレンジャーでありたいダメおやじなのでした。