まだカセットテープが全盛だったころFMで放送されるクラシック番組を録音するのが一般の音楽好きの流儀だった。

 

 

名だたる音楽家のライブ演奏などのときはとりわけ念入りに準備をし、カセットテープも「特上・上・並」のような区分けがあるなかの「特上」のテープを使ったものである。わたしはいわゆるオーディオ・マニアではなかったからその程度ですんでいたが、ほんものの「音キチ」となると専用のアンテナを屋外に立て、高額のオープンリールのテープで録音していた。

 

いちどそういうひとの家で聴かせてもらったことがあったが、その音があまりにいいのに驚かされた。もうああなるとレコードが鳴っているのか録音されたものなのか区別できないレベルだったが、当時からわたしは集合住宅暮らしだったので音量をあげるのにも神経をつかうためオーディオ装置に狂う余地はなかった。さいわいなことである。

 

 

さいきんレコードが復活していると聞く。

 

 

ニュースなどでは「あたたかみのある音にいまの若いひとたちは惹かれている」などといっているが、正直なところわたしにはその「あたたかみ」がよくわからない。

 

 

かつてレコードで聴いていたものとまったく同じ音源のCDをいまは聴いているのだが、CDで満足である。精緻に聴き比べたわけではないから、もしかするとそれなりの機材と環境のなかで比較したら違うのかもしれないが、そこまでしようとも思わない。

 

 

演奏会にいって目のまえで鳴る音と自宅の機械によるそれとでは違うのはあたりまえで、ホールを自宅に再現したいなどとは露ほども思わないが、マニアはそこを追求するらしい。先日もある音キチと話しをしていたら「いい音を追求しようとしないあんたの気がしれない」とあきれられた。その御仁はカーオーディオの製作を生業としているから、わたしのように音に怠惰なものはいわば敵、ないしは悪なのである。

 

 

どうせ聴くならいい音で − もちろんその気持ちは理解できるし当然の欲求だろう。だがわたしにとっての音楽というのは空気とか水とかとほぼ同じ存在なので、あるかないかが先決かつ大問題だから、おいしい空気を吸うためにわざわざどこかへ行こうとは思わないのに等しい。とはいえさすがに20世紀初頭の雑音のかなたからか音楽らしきものが流れてくるとなるとお手上げではあるのだが。

 

ふだん眠りにつくときはiPhone本体からながれてくるバッハやドビュッシーを聴きながら眼を閉じる。

 

わたしにはそれだけでもう充分なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは12歳のときからいわゆるクラシック音楽を聴いていまに至る。きっかけはヘンデルで、それからブラームス → ベートーヴェン → モーツァルトと続くことになるので、和声的にいえば安定した曲を聴いてきたわけだ。

 

したがって半強制的にブルックナーを聴いたとき、その不揃いな和音と半端な形式に苦労したのだが、どういうわけかリヒャルト・シュトラウスは素直に聴くことができた。登校前の不穏な心持ちをおさえるために「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の後半部分、あるいは「祝典前奏曲」の冒頭や終結部を聴いていたものである。

 

和声的にいうならブルックナーなど吹き飛んでしまうほどに過激であり、シュトラウス自身が「無調な音楽を書いた」というくらい調性をぶっ壊すことに情熱をそそいだのだが、どうして古典的な調和に親しんでいたわたしの耳がかれのサウンドを拒絶しなかったのだろう?

 

このことは長年の疑問だったのだが、先日みごとに氷解した。

 

ある指揮者が「棒を振るのに苦労する曲、あるいは振っていて法悦にひたれる曲」について述べていて、後者の、指揮者が響きに酔いしれてしまう曲の筆頭に「ドン・ファン」をあげていた。かれいわく、すべての楽器がもっとも美しく鳴るようにこの曲は書かれているのだとか。

 

音楽にかぎらず、料理でも編みものでも会社組織でも具材やあるいは素材、人数が多くなればそれをまとめて完成形にちかづけるのは易しくない。つまり数が増えれば呼応したテクニックや手腕が求められる。

 

楽器の数からいうならリヒャルト・シュトラウスとマーラーは常軌を逸したともいえる双璧であるが、この2人の書いた曲を聴けばその質の違いにおどろく。明と暗、清と濁、そんなところか。

 

さてシュトラウスは歌劇をもっとも愛していたから多くの作品を創った。と同時にかれが崇拝していた作曲家がモーツァルトであることも有名だ。この2人は、いわば対極に位置する芸術家ではあるが、多くの共通点がある。その最たるものが歌声を楽器と見立てていたことである。

 

リヒャルト・シュトラウスの響きは、澄みきった秋の空と似ている。

 

 

 

 

 

 

 

「アパートの鍵貸します」という古いアメリカ映画をご存じのかたも多いと思う。

 

ジャック・レモンとシャリー・マクレーンの代表作であるばかりでなく、もしかすると現代のアメリカ人には、もはやあのような映画は創れないのではないか、と思うほどに秀逸である。大金を使い、やたらと血が流れるような今のハリウッド映画の対極に位置している。けれどまったく古くない。

 

どうしてか?

 

思うに、古代ローマのころからすこしも変わっていない人間という生きものの哀しいサガを上手に、かつ丁寧に描いているからだろう。

 

わたしがこの映画を持ち出したのは批評するためではない。

 

映画の冒頭ちかく、17時の終業を告げるベルが職場に鳴り響くといっせいにその日の仕事をやめて競うようにデスクを離れるOLたちが描かれる。いくばくかの誇張はあるにしても、管理職ならざる一般社員の行状はあのようだろと思われる。よくいえば合理的、悪しき表現をするなら自己中心的なのが欧米の価値観だからである。そしてわたしは、それが正しい、そう思っている。

 

日本という国が素晴らしいことは否定できない。電車のなかに忘れたカバンが、財布と現金ともども届けられる国なんて、そんなにないだろう。これは稀有としか言いようのない環境なのであって、その背景には極東の島国で、ほぼ単一民族が住んでいて宗教ももっていないという世界レベルでは非常識な空間にわたしたちは暮らしているからである。そしてこのことは、上述の映画のごとき世界では、けっして享受できない。

 

ほんとうは、ここからが本質に迫る話しとなるわけだが、疲れたのと、お読みになった方々がわたしの言いたいことをほぼお察しいただけたものと考え、終わりにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ローベルト・シューマンはピアノのヴィルトゥオーゾを目指しフリードリヒ・ヴィークという厳格な師匠のもと、連日ピアノと格闘したひとである。その道の達人たらんとして精進する人間によくあることだが、彼もまたあまりに激しい練習につとめたため指を痛めてしまいピアニストをあきらめる。その代わりに作曲と音楽批評のみちを選ぶこととなった。

 

たいへん興味深い事実がある。

 

シューマンはショパンと同じ年(1810年)に産まれている。ふたりともにピアノの名手で作曲家というおおきな共通点がある…ひとりは名ピアニストにして社交界の花形、かたや夢半ばで挫折したという残酷にして決定的な違いはあるのだが、かれらがピアノという楽器を、いわば跳躍台として飛び上がったのは偶然ではない。ちょうどこの時代にピアノは現代のものとほぼ同じ完成形となった。だから多くの音楽家たちはピアノの腕をみがくことに腐心したわけだ。

 

ショパンは順調にピアニストとして世に出ていき、本人も周囲もかれに余計なものを求めなかったから作った曲もピアノのためのものばかりとなった。文化人たちのサロンで披露する曲が中心だから深遠で瞑想的というより、明るく華やかなもの、コントラストをつけるため暗くメランコリックなものなど表情が比較的わかりやすい。誤解のないようにいっておくが、だからショパンの曲が軽薄だ、ということではもちろんない。もうすこしていねいにいうなら「明」と「暗」、「動」と「静」、「陰」と「陽」など曲の構成要素や方向性がハッキリとしている。高音域はとても輝かしく低音域は重厚でときに深刻だ。こういう要素で書かれているから弾くひとも聴くひとも迷うことがない。したがって人口に膾炙する。

 

さて、シューマンである。

 

なにしろみち半ばにして座絶し、果ては精神を病んでしまうほどの繊細なこころをかれはもっているから話しはそう簡単ではない。先ほども述べたようにピアニストとしての練習は徹底的にしていたが作曲家としての勉強をかれはしていないのである。ここでいう「作曲家としての勉強」というのは対位法や古典的和声学、あるいは器楽法や厳格な諸形式のことである。そういうことをしてこなかったかれは、演奏者としていままで接してきた偉大な作品から吸収し消化したものがかれの音楽の核ということになる。それはつまり、どのように書けばどのように聴こえるか、というシンプルにして本質的なことでもある。

 

こころを病んでライン河に身投げしてしまうほど内省的な人間が、ひらめいたテーマを無造作に提示するわけがないので、周到な細工のなかに主題が浮かび上がるような技巧的手法でかれは曲を書いた。この方法はとうぜん管弦楽曲にももちいられる。世間はとやかく云いたがるから、シューマンのオーケストレイションは稚拙だという烙印を押した…いわく、やたらと管と弦を重ねるので響きがくすんでしまう、中音域にテーマを奏でさせるから旋律が浮かびあがらない、輪郭が不明瞭でオーケストラの魅力が活かされない、などなど。のちの世のオーケストレイションの達人や演奏家たちはいろいろと手をくわえた。もっとも有名なのはマーラーが編曲したもので、いまでもその版で演奏されることがしばしばである。

 

柴田南雄という作曲家がいた。かれは音楽批評もしていて、わたしは何回も読んだものである。柴田氏がいうには、寄る辺ないような薄暗い響きこそがシューマンの意図したものであって、オーケストレイションが稚拙だから輪郭がぼやけるのではなく、まさにその響きこそがシューマンの欲していたサウンドなのだ。

 

この文章を読んだとき、わたしはたいへんな衝撃をうけた。音楽を理解するということは、つまりこういうことなのだ。

 

わたしが思うシューマン的響きの真骨頂は、第2交響曲のアダージョである。

 

 

 

 

 

 

むかし職場の同僚とカラオケにいったとき、作曲者と編曲者について語りあったことがある。

 

リクエストした曲がモニターに映し出されると曲名にあわせて作詞、作曲、編曲者の名前も表示されるので、

 

 「この曲はメロディはたいしたことないけど、アレンジがいいからグッとくるよなぁ」

 

なんていうことからスタートしたのだった。

 

その同僚は今でいうJ-ポップ、当時はサザン・オールスターズとか山下達郎、それと'80年代のアメリカン・ポップスが大好きで、本人も神奈川出身にしてサーフィンを趣味としていたから歌の波に乗り出すと止めようがなくなるのだった。わたしもそちらの方面の曲は好きだったので、ちょっとした「歌合戦」になることもしばしばで、その延長線上で作曲と編曲の語り合いになったというわけである。

 

かれはいわゆるクラシック音楽には不案内なのでその領域へ話しが進展するとは思ってもいなかったし、わたしも触れる気など毛頭なかったが、ディスカッションは想定外の展開を始めた。かれがわたしにこう問うたのだ。

 

  「あのさぁ、おまえの好きなベートーヴェンの『第九』っていいよな…。あの曲はだれが編曲したんだ?」

 

 

念のためにいっておくが、わたしは彼をおとしめようとして言っているのではない。むしろ、そういう見かたもあるのか、と眼からウロコが落ちたくらいであった。

 

まぁ、そのあとオーケストレイションという作業こそがヨーロッパ古典音楽の肝なのだ、という教条主義的な愚論を述べたわたしはまだとても若かった。

 

 

 「舞踏への勧誘」という名曲がある。

 

このタイトルがあまりに堅苦しいから、知らないひとは見ないふりをしてとおり過ぎてしまう可能性がある。もっと曲ほんらいの趣旨にてらして「ダンスのお誘い」でもいいとわたしは思っているのだが。

 

曲はもともとピアノ独奏用であったが、ある事情からどうしても後世のひとがオーケストラ版に編曲する必要が生じた。結果としてひろく人口に膾炙するところとなり現在に至っている。

 

これくらいの名曲となるとオリジナルに手を加えることは良識あるひとなら躊躇して、場合によっては編曲を辞退することもあるだろう。だがその編曲者は偏執者でもあったので実行し、そして成功した。わたしは原曲と編曲のどちらも好きだが、あえてひとつ、といわれたら迷わずオーケストラ用に編曲したほうを選ぶ。ピアノではぜったいに表現できない鮮やかな色彩感が曲の美しさをいっそう引き立てているからである。ハープやピッコロが奏されるところなど、まるで金の粉が宙を舞っているようにまばゆくて思わず眼を閉じてしまいそうになる。

 

 

 

 

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…とまぁ、ベルリオーズ大好きなわたしにとっては、かれの蛮勇をこころから讃えたいのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんとうか嘘かは判らない。だがクラシック音楽好きのあいだではまことしやかにいわれていることがある。

 

ワーグナー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウスなどドイツ後期ロマン派の系統をひく作曲家たちは「ここぞ!」という音楽を書くときには変ニ長調をもちいる、というのである。たしかに「ニーベルングの指輪」は「ラインの黄金」のあの長い前奏曲が変ホ長調の分散和音で美しく重なりあう天上の響きなのに、「神々の黄昏」の最終場面、ついにワルハラの城が燃え上がりライン河が激流となって押し寄せるあの最後の場面で清澄な「愛の救済の動機」が奏でられる、あそこは変ニ長調である。和声の感覚からいうなら、変ホ長調ではじまった曲が変ニ長調で終わるというのはとてもおかしい。


ブルックナーでは、第7交響曲アダージョのコーダ、第8交響曲のやはりアダージョのコーダ、どちらも変二長調である。リヒャルト・シュトラウスは枚挙にいとまがないのだが、典型的なのが「四つの最後の歌」の第3曲「眠りにつくとき」でヴァイオリンがソロを奏でる夢見ごごちの白眉の部分、あれもそうだ。ついでだからいうと、グリーグのピアノ・コンチェルトの第2楽章、サン=サーンスの交響曲第3番の緩除部分-あの満天の星空のもとでひとり憩うような音楽、そしてドビュッシーの冴えざえとした「月の光」も変ニ長調である。

おそらくあのころは内省とか、あるいは浄化、清明という感覚と変二長調の響きの結びつきが、いわばブームだったのであろう。調性と感性には断ち切れない関係があるのは事実で、絶対音感の持ち主には色彩感をともなって響いていたはずである。モーツァルトが変ホ長調で書くときはK.543や「魔笛」の序曲のように伸びやかで神々しい曲となる。ベートーヴェンにとってはさらに意味深いものとなり、そのままで恐縮だが、英雄的なものや偉大なものの代名詞となる。悲劇的といえばト短調かハ短調だし、いっぽうヘ長調はバロックのころから田園風景をあらわす調であった。だからベルリオーズのような革新家でさえ「野の風景」を描くとなれば、やはりヘ長調である。古典的な調性感覚というのはある意味で言語感覚と似たものが音楽家たちにあったのだろう。

 

さて、そうなると、ブルックナーが変ニ長調で書かなかった曲にはそういう思い入れがなかったのか、ということになってしまう。かれの白鳥の歌である第9交響曲の3楽章。それも彼岸の音楽としかいいようのない清澄の極みのコーダ!

 

ホ長調なのである。

 

きれいなまでのホ長調で、だいたいかれのスコアはとにかく臨時記号ばかりでひどく汚く見にくいのに、第9のアダージョのコーダはおよそブルックナーの譜面とはおもえないほど白々ときれいなのだ。

 

このことをどうとらえるか。おそらく、ここからブルックナーのいちばん深いところへ進んでいく道があるとわたしは考える。

 

 

 

 

 

 

 

一昨日はまたしてもペシミスティックな嵐に翻弄される予感があったので、こういうときは早く寝るにかぎるから処方されている睡眠導入剤3種類と睡眠薬3錠、そして抗うつ剤2錠を服用し19時ころベッドに横たわった。

 

陽が長くなってきたので灯りを消した窓のそとにはふかい藍色の空にあかね雲がひろがっている。

 

読みかけの本でもめくりつつ眠ろうかとも思ったが、せっかくの初夏の黄昏を眺めながらの眠りだから音楽を聴いて、ということにした。

 

ブラームスのピアノ協奏曲第1番、バックハウスのピアノ、ベーム指揮ウイーン・フィルの演奏。1953年6月の録音だから当然モノラルである。

 

個人的な意見であるからご賛同いただけるか否かは不明だが、かれ、ブラームスが書いたオーケストラ作品のなかではこの作品15の協奏曲が最高傑作だとわたしは思っている。息苦しいまでに緻密かつ重厚で、およそコンチェルトという領域には似つかわしくない曲調だが、そこがまたいかにも彼らしいではないか。

 

よく知られているようにこの曲はもともと交響曲とするために筆をすすめた。

 

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うえの譜面をご覧いただければお察しかもしれないが、名曲らしい風貌はまったくない。
試行錯誤のすえピアノ協奏曲として発表されたのだが、かれが書いたほかの作品とおもむきが異なるところがおおい。
 
まずいきなり第一楽章で問題が発生する。音楽にとって最重要であるテンポの指定がないのである。ブラームスが指示したのは「マエストーソ(厳かに)」だけ。まぁ「厳かに」と指定されれば快速に軽々しくとはいかないだろうが、それにしても選択の幅がひろすぎる。こういうものの常として「業界標準」のような雰囲気があるから演奏者によって極端に違いはないのだが、そうはいってもやはり決定打が欲しいところである。
 
ということで前述のバックハウス、ベーム、ウィーン・フィルの登場だ。
 
かれらに共通しているのはブラームスが生きていた時代の空気を日常感覚で知っていること。とくにバックハウスは生前のブラームスの前で演奏した経験があり、ベームの師匠はオイゼビウス・マンディチェフスキーというブラームスの親友だった。そして録音当時のウィーン・フィルの古参にはブラームスの指揮で演奏したものもいた。この録音は、つまりブラームスの時代と連続しているのであって正真正銘のホンモノである。
 
知っているひとも多いとおもうが、この曲のテンポをめぐってグールドとバーンスタインが1962年9月のニューヨークでの演奏会で衝突した。録音も残っているので聴くことができる。第1楽章の始めはたしかに遅くやたらと重々しいが、途中から一般的なテンポになっていく。グールドというピアニストはやたらと曲のテンポを弄ぶので、たしかに面白いし才気にみちてはいるが正統とは呼べないだろう。
 
このコンチェルトはブラームスのほかの協奏曲と同じようにソリストに求められる高い技術力が聴衆には判らない。おそらくはそれがブラームスの天性なので、かれは技巧をひけらかすような見世もの的華やかさを卑しんだのだろう。それと呼応するかのように、かれのほかの作品にはほとんど顔をださない敬虔で宗教的な空気が第2楽章を支配する。このこともブラームスに珍しく、もともとは「ドイツ・レクイエム」で用いる予定だった旋律を転用したので厳かなのも当然である。
 
ここでもバックハウスのテンポにまよいはなく、ベームの棒もしっかりとサポートしている。
 
 
というわけで、この曲はバックハウス、ベーム、ウイーン・フィルの1953年ものに勝るものはない、そう考える。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

東日本大震災で店を失ったあるじが復旧に関してのインタビューにこう答えた。

 

  「震災前にもどすのではなく、震災前を超える状態にしてみせる」

 

このことばには参った。まだ若い店主だったと記憶しているが、その肝がすわった話しっぷりは堂々たるもので、テレビのまえで思わずこちらが居ずまいを正したのだった。

 

こういう逞しさを「凛とした」と評するのであろう。性根の腐りきった発育不全のバカ男に、だから復興大臣なんて務まるはずがないので、こう書いているだけでムナクソ悪くなってくる。

 

語学学校に毎週かよいフランス語を習うのをやめて2年が経った。2008年から2015年のあいだ、ほぼ毎週出席していたのでやめる直前には日常会話以上の、たとえば政治的な話しやフランス人の好きなアフォリズムについてもフランス語で考え、発言しフランス語で理解していた。このあたりの感覚、外国語を習ったり使ったりしているひとにはわかってもらえると思う。

 

当時わたしは3時間の授業を録音し、帰宅後に復習していた。その音声はいまでもすぐに聞けるのだが、じつに残酷なことにまったく聞き取れない…というより理解できないのである。

 

録音は毎回わたしの発言から始まる。以前にも書いたように先週の講義での質問で授業がスタートし、わたしは誰よりもおおく発言することを自身に課していたからである。辞書や文法書をみれば簡単にわかることでも、わたしは敢えて質問した。いちばん長く師事したフランス人教諭がこう言ったから。

 

「日本人はおとなしくしていることを美徳とするが、それはおかしい。質問がでてこないのは、前回の授業の内容を100%理解しているか、まったく判らないかのどちらかだ」

 

こういう発想がヨーロッパなのであり、主張しない自己は存在しないとみなされる。人目を気にするという発想がそもそもないのである。じっさいヨーロッパにいけば、恋人同士は地下鉄の車内で熱烈に抱き合いキスの嵐だし、ニューカレドニアのビーチでは半分ちかくのフランス人女性がトップレスで陽を浴びている。それがあたりまえの文化だから周囲も気にしない。

 

しかし語学学校は日本にあり、受講生は日本人だから教師にたいして

 

   「ここは日本で、わたしたちは日本人だから!」

 

と主張してもいいし、それはそれで別の展開をうむ可能性もある。

 

けれどわたしには、そう言いきることがなんだか幼稚に思えたし、フランス人教師の発言のほうが的を射ていると感じたからとにかく発言し、みずから前にでて黒板に答えを書くことを自分に強いたのである。

 

おっと危ない。ここで文化比較をするつもりなんてなかった。

 

わたしが愕然としたのは、ボイスレコーダーから聞こえるわたしの発言が、いったい何を言ってるのかサッパリわからなかったという悲しい現実なのであった。教師の説明がわからない、というのはまぁ許容範囲内だが、ほかならぬかつての自分が言っていることがわからないというのは、これはもう劣化以外の何ものでもない…。

 

ということで、あのときの自分を超えてやろうじゃねぇか、と立川談志のようにひとりごちたのでした。

 

 

 

 

 

 

営業という仕事をしているので何かとあたまを下げる場面がおおい。

 

といって、べつに失敗ばかりで謝罪しているということではない。

 

「ごめんください」「ありがとうございます」「お邪魔いたしました」「またお伺いいたします」などなど、まぁわたしたちが何かを買ったり他人の家を訪問したりするとき当たり前のようにする社交辞令である。テレビのアナウンサーや気象予報士なども自分のパートが終了するときにはだいたいお辞儀して区切りとする。日本人にとっては至極とうぜんのこの所作も意識してするのとそうでないのとでは天と地ほどの差がある。

 

新入社員の研修トレーナーをつとめていたころ、4月のはじめあたりはかならず「ビジネスマナー」なる枠があってわたしが担当することが多かった。服装のルールやことばの使いかたなど、ありきたりといえばそれまでの項目が連綿とつづくのだが、どんな講座を受け持っても100%脱線して過去の経験談や自身の信条を述べてしまうのがいわばわたしの真骨頂なので、お辞儀をする、という部分でもかならず道からそれて行方不明になってしまうのだった。

 

わたしは誰かといっしょに顧客訪問することがおおく、そして同行するひとはその都度ことなるのだが、ほぼ全員がいうのはわたしのお辞儀がていねいだ、ということであった。

 

それは当たり前なので、わたしは意識的に、全神経を集中してお辞儀をしているからである。その瞬間のために訪問という行為をしているといっても過言ではない。

 

わたしのお辞儀の師匠は立川談志である。

 

あれほどきれいで品格があり、媚びているような下品さなどまったくなく、むしろ威圧的なお辞儀というのは、これはもはや芸の域にたっしている。かれの話芸とあいまって「立川談志」という一級品が完成するわけだが、話芸のほうはもちろん真似できないから、せめてあのお辞儀だけでも、という気概をもってわたしは毎回お辞儀をしている。

 

この小文を読んで下さるあなたがもしお辞儀をする場面に遭遇したなら、お辞儀ひとつでその場の空気をこちらのものにしてしまうことが可能なのだということをぜひとも思い出して欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アントン・ブルックナー、わたしは彼の対極に位置するであろう作曲家についてどうしても書かねばならない。ひとつには敬愛する両名のために、もうひとつは長年音楽とともに生きてきた、わたしの耳のために。

 

ブルックナーの対極に位置する作曲家、それはベルリオーズだとわたしは思っている。

 

両名の取り合わせに「?」というひともいるかもしれない。あるいはベルリオーズのことを、そもそもよく知らない、あるいは興味がないというひとも多いのではないだろうか。

 

かまわない。この小文はそういうことを前提として綴るつもりだ。

 

さて、わたしたちがヨーロッパの音楽を聴くとき、その曲が書かれたときの日本はどういう時代であったのかということを認識しておくことは無益ではないだろう。

 

ブルックナーは1824年に産まれ1896年に死んでいる。日本流にいうと文政7年から明治29年 - 勝海舟がちょうど1823年から1899年だから、同時代といっていい。つまりブルックナーの傑作とされるシンフォニーはすべて明治時代のなかばに書かれたわけである。

 

いっぽうのベルリオーズは1803年から1869年、享和3年から明治2年となる。比較参考のためにあげておくとベートーヴェンは1770年から1827年。ベルリオーズ誕生の年にべトーヴェンの交響曲第2番とピアノ協奏曲第3番が初演されている。したがってベルリオーズの青春、青年時代はこんにちのわたしたちが知っているベートーヴェンのほとんどの作品が創られたときと重なっている。ベルリオーズ27歳のときにべトーヴェンが死んでいるので、深みの極みともいえる晩年の傑作群書いているとき、ウィーンとはほど遠からぬパリのコンセルバトワールで彼は学び、かつ自身の音楽を創るべく格闘をしていたのである。

 

ベートーヴェンが「第9」で交響曲という分野に終止符をうったと思われたあと、まったく新しいアプローチでこの領域を拓こうとベルリオーズは模索していた。本人は自覚していなかったとしても、歴史がそれを証明する。

 

「幻想交響曲」は「第9」の初演から6年後、ベートーヴェンの死からわずか3年後の1830年に発表された。ベートーヴェンが絶対音楽にとどめを刺してからたった6年の間隙で異次元の音楽が現れたことになる。「表題音楽」という、ある意味で音楽自体を崩壊へと導く禁断の扉がおおきく開かれたのである。

 

いやいや、ここは音楽史を述べる場ではなかった。

 

ブルックナーが自身の交響曲のなかで「鳴りもの」をつかうことに逡巡していたことはすでに書いた。と同時に音楽とはかれにとって信仰のひとつの表現であったことも教会のオルガニストということで触れた。もっと率直にいえば、ブルックナーはオーストリアの田舎教会のオルガニスト&作曲家なのであり、洗練だとか変革などというものからいちばん遠いところにいたひとである。

 

ブルックナーより20歳以上年長にして、医者となるべくパリにいたベルリオーズは、とうぜんながらブルックナーとはまったく異なる環境のもとで育ち、最先端の刺激のなか生きていた。

 

おもしろい話しがある。前述のように「幻想交響曲」はベートーヴェンの死後わずか3年後に発表された曲なので、あえてカテゴリー分けするなら「古典」である。かつて岩城宏之がウイーン・フィルの定期を振ることになったときのプログラムがハイドンのシンフォニーと「幻想交響曲」だった。当時の楽団長が岩城に「ベルリオーズは新しい音楽だからイワキの好きなように振っていい。だがハイドンはわれわれの演奏に合わせて振れ」と伝えた。岩城宏之本人がそう書いているのだから真実だろう。ウイーン・フィルにとってベルリオーズは、たとえばストラビンスキーとかバルトークみたいな感覚でとらえられているわけだ。…まぁ、それもどうかと思うが。

 

話しをすすめる。

 

ベルリオーズはいまでも管弦楽法の大家 - すなわちオーケストレイションのお手本とされている。かれは医者になるための勉強を放棄してコンセルバトワールにはいり、形式とか和声学などを徹底的に学んだ。したがってかれの書いた音楽には形式とか和声の破綻や破壊というものはないので、ただその響きの多様性 - 今ふうに表するならサウンドにおけるダイバーシティの追求が理由で異端視されただけである。

 

華麗な響きをもとめたベルリオーズはとうぜん楽器のかずも多くなる。挙げだしたらキリがないので少しだけ紹介する。

 

たとえば「幻想交響曲」ではティンパニ奏者が4人必要だ。なぜならティンパニでハーモニーを奏でるから。

 

また第2楽章は典雅なワルツでハープが用いられる。譜面上は2台だがベルリオーズは「多ければ多いほどいい」と指定する。ブルックナーが第8シンフォニーでハープ3台だったのに、そう思われるかたのために言っておく。ブルックナーは3台すべてユニゾン、すなわち同じ旋律しか弾かない。ベルリオーズはべつべつの声部、ちょうど第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンのように書き分ける。そしておのおのがオーケストラの音にかき消されないよう「できるだけ多く」と指定するのである。

 

そもそも交響曲にはメヌエットが必須であったのに、さすがベルリオーズはワルツ、それも超一流のワルツを書いた。いっぽうのブルックナーはスケルツォだが、これがひどく重厚、というより野暮ったい。極めつけはトリオの部分で、第9番以外は田舎舞曲のレントラーになってしまう。

 

「幻想」の終楽章ではなんと教会の鐘まで登場する。奇をてらったわけでなく、死者を表現するための音として。

 

 

う~ん、まだまだ書き足りないのだが、疲れたのできょうはこれまでということで…。