鹿島茂氏の「ドーダの人、小林秀雄 わからなさの理由を求めて」はさいきん読んだ本のなかでも抜群におもしろかった。
なにしろ小林秀雄という一流のネタを切れ味するどい包丁で叩きまくるのだから痛快である。あの難解な小林の文章はいまでもわたしを苦しめているのだが、そしてそれはわたしの知力が足りないからだと思い続けてきたのだが、鹿島氏は、小林秀雄の文章を理解できるほうがどうかしていると断ずる。
日本語としても支離滅裂だし論理もなにもあったものじゃない。あれはただ単に小林秀雄が「どーだ、おれはこんなにいろいろものを知っている超インテリなんだぞ、まいったか!」といいたいだけだ、というのである。いやはや、スゴイ意見だね。
おもいかえせば中学生のころ、ブルックナーと小林秀雄を理解することが、学校の成績の良し悪しと関係なく時代の先端をいく恐るべき子供たちの仲間入りとされており、いちおうクラシック音楽を愛するわたしとしては半強制的に彼らからブルックナーと小林の理解をもとめられていたのであった。この2人を解さないというのはすなわちバカだという高度ないじめのような雰囲気のなか、帰宅しては巨大な軟体動物のような音楽に集中し、レコードの針をあげるとつぎは小林秀雄の文章と格闘しなければならなかった。
フランス文学など触れたこともなかったので小林の語ることは二重にも三重にも不可解であったが、だからといって「徒然草」や「西行」もよくわからず、わたしの好きなモーツァルトにおいてはわたし自身を疑わなければならない始末であった。
つい先ごろ何十回目かの「モオツァルト」挑戦をこころみ、けっきょくのところ小林秀雄はモーツァルトについてなにも語ってはいないじゃないか、そうおもった。
道頓堀をさまよっているうちにK.550のテーマが頭のなかで鳴ったというレトリックにだれもが幻惑され、果ては「tristesse allante(走るかなしみ)」などとすごい表現があらわれ、しかも自分の心持ちを言い当てられて驚いた、そう書かれるとそのクインテットを知らなかったことと相まってモーツァルトを聴くのが憂鬱になったものである。
小林秀雄が抽象的な表現を好んで書いているという批判は初期のころからあり、中野重治や坂口安吾のものが有名だが、こんかいの鹿島茂氏のように分析的かつ理性的な指摘は初めてだろう。
この本のおもしろさは単に小林の文体についての論評だけでなく、かれと同世代の日本人たちが日本近現代史の狂気を演出したという興味深い仮説を展開する。膨大な知識と教養に支えられた、久しぶりに知的好奇心をくすぐってくれる良書だった。