夏の思い出 ~無価値感 | フラメンコギタリスト樫原秀彦のブログ 

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日々の気づき
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ようやく夏が終わろうとしている。。。

11月10日と11日のライヴに向けて、夏の間に新しい曲を作ったり、
演奏技術の向上に努めようと思っていたんだけど、
無性に誰かと話しがしたくて、みんな何を思いなながら暮らしているのか知りたくて、
とにかく今年の夏は人に会い続けた。

新しい出会いから26年ぶりの再会まで、友達の子供達と触れ合う時間もたくさんあった。
無邪気に遊ぶ姿。僕を真っ直ぐに見つめる瞳。
いろんな事を考えてしまった。
自分には子供がいない事の欠落感。 いつから自分は観念的に物事を捉える様になったのか。
性善説であるならば、どうして悪は僕の中に生まれ、こんなに苦しいのか。。。

そして大人達との触れ合いの中で印象に残ったものは、無価値感だった。
無価値感というのは読んで字の如く自分には価値が無いと感じてしまう事。
多かれ少なかれ誰にでもあると思う。
「俺なんか、私なんか」という言葉を日常、いろんな場面で耳にすると思う。
無価値感は3つに分けると、自分自身との関わりの中で、他者との関わりの中で、
社会との関わりの中で生まれて認識されるものだと思う。

例えば自分の場合。
まずミュージシャンだから、誰かが奏でる素晴らしい音楽に心が触れてしまった時に。
身近にいる誰かが苦しんでいるのに力になれない時に。
この人の幸せの為に自分の存在自体が邪魔になっていると思ってしまう時に。
社会との関わりにおける無価値感の例は吐いて捨てる程にあるので省略。(笑)
この無価値感は、よっぽどの勘違い野郎か不誠実な奴じゃない限り、
今、僕達のいる形而下の相対的な世界で生き続けていけば、
溶かしても、手放しても、悲しいけれど決して消えて無くなるる事はない。
じゃーどうする? 諦める? ただ受け入れる? 宇宙にでも行く?(笑)

どうせなら僕は、自分が向き合っている自分に、誰かに、社会に、
1つ1つ自分だけの価値を見いだし、そこに存在しながら生きていきたい。
たとえそれが困難な事だとしても。
そして、その先にきっと使命感は生まれるんだよ。
そしたら、今よりもっと優しくなれるだろう。 悲しくないだろう。 歓びが生まれるだろう。

相対の反対は絶対。絶対とは他に比べる対象が存在しない事。絶対的な領域。
それはたぶん、愛そのものだ。
いつの日か、みんなそこに還るんだとしたら、私とあなたという境界線も無くなるんだとしたら、
もう少しの間この形而下の相対的な世界の全てを、この目に、この心に刻んでおこう。
決してあなたのことを忘れない様に。。。

自分が情けなくて溢れる悔しさの涙。 恋をして切なくて溢れる涙。
苦しんでいる誰かの為に溢れる涙。 日々、目に映る社会の惨状に流れる悲しみの涙。
その1つ1つの意味を知ること。 
きっとそれが生きるという事なんだ。
無様でも不毛でも構わない。在るがままで良いじゃないか。。。




                      健宗、ようこそこの素晴らしき地球へ