ミナト神戸のお話(HIDEKYU Radioから) | HIDEKYUブログ

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先日、神戸ハーバーランドに行ってきました。

夜景が、心に染むほどキレイでした。

コロナで夜景を眺めに行こうなんて、発想がなかったのでなんだか感傷的になりました。

それでは、HIDEKYU Radioの文字起こしをどうぞ。

 

この週末は、イイ天気で
実は土曜日の午後に
ぶらりHIDEKYUの取材をかねて、神戸をぶらり歩いてまいりまして、
最後、神戸ハーバーランドで夜景を楽しんできました。
いやぁ、ハーバーランド久しぶりに行ったんですが、
夜景、キレイですよね。
なんか、コロナで夜景をゆっくりと観ようなんて、
考えもなかったので、なんだか少し感傷的になってしまいました。
また、緊急事態宣言も解除になったこともあって、
人手も、まぁ、コロナ前には戻ってないかも知れませんが、
それでも、若いカップルやお友達どうし、ファミリー達が、
思い思いに休日を楽しんでいるのを見ると、
やはりこうでなくっちゃって、思っちゃいますね。
それで今回のHIDEKYU Radioは、この神戸のぶらりに備えて
神戸のミナトの歴史を調べたので
ほとんどWikipediaさんに教えて貰ったのですが
その内容について紹介致します。



神戸に港があったと記録されているのは
大輪田泊(おおわだのとまり)でした。
すでに奈良時代には存在していたとのことで
遣隋使や遣唐使などでも使用されたのではないかと
思われます。

この大輪田泊(おおわだのとまり)が
どのあたりにあったのかというと
鉄道マニアには有名な和田岬あたりであると言われています。
大輪田の輪が和になって、大が外れて
和田岬となったと言われております。
もっとも、当時の浜はもっと内陸寄りであったと思われます。

時代は流れ、平安時代の12世紀に平清盛によって
大輪田泊が改修され、
1173年には風雨による波浪を避けるために
経が島という人工島を作りました。
そして、この大輪田泊を見下ろす高台に
福原京を築くことになります。
そして、大輪田泊は
日宋貿易(にっそうぼうえき)の拠点となります。
鎌倉時代には国内第一の港として
兵庫津と呼ばれるようになります。

神戸市営地下鉄海岸線 中央市場前駅近くには
兵庫津遺跡と呼ばれる場所があり
発掘調査がなされているようです。
また、その南側には大輪田橋が兵庫運河に架かり
大輪田という地名を今に残してくれています。

兵庫津は、室町時代には日明貿易の拠点となり
国際貿易港としての地位を得ます。

江戸時代に入り、鎖国政策の下で
北前船や国内を航行する船の要港としてさらに発展していきました。
江戸時代末期、日米修好通商条約により1863年に開港が定められ
朝廷は反対したものの
ロンドン覚書によって、1868年に兵庫津より東側を兵庫港として開港しました。

そして、そこでビジネスを行う外国人の居住地を定めるために
外国人居留地を設けました。
その南北のラインは旧・湊川が境となりました。
いろんなご指摘あるかと思いますが
ザックリ言いますと
この湊川より西側がもともとの兵庫として発展をし
東側は開港した兵庫港、後の神戸港を基に発展していきます。
この2つの軸が神戸を独特な形で発展させていくことになります。

子供の頃より、不思議に思っていた
兵庫県と兵庫区はあるのに兵庫市はなく
神戸市はあるのに神戸県も神戸区もない
兵庫県と同じ名前の兵庫駅は新快速は停まらないのに
神戸市と同じ名前の神戸駅は東海道本線の終点で新快速が停車するといった
大阪や京都にはない不思議は、この辺が発端となっているように思います。
これは、同じように開港し、外国人居留地が置かれた
横浜も同じような発展をします。
神奈川県と横浜市の関係のようなものとなります。

1892年に旧生田川の河口付近から和田岬までの全体が神戸港となります。
第二次世界大戦中はイタリアやドイツなどの
仮装巡洋艦(かそうじゅんようかん)やUボートなどの拠点として機能しました。

そして敗戦により、神戸港はGHQに接収されます。
1951年には占領は解除されますが
返還は段階的に行われて、最後に新港第6突堤が返還されたのが
1974年だったそうです。

戦後はアジア最大のハブ港として
日本の高度経済成長を支えていきます。


鉄道貨物線も港の隅々にまで引き込まれていました。
神戸の貨物線は大きく2系統に分類されます。
ひとつは通称「神戸臨港線」で東海道本線・東灘信号場
現在の摩耶駅から分岐して
摩耶埠頭、神戸港、湊川への東海道本線の貨物支線と
もう一つは通称「兵庫臨港線」で山陽本線・兵庫駅から分岐して
兵庫港、神戸市場(こうべしじょう)、新川(しんかわ)、和田岬への山陽本線の貨物支線です。
こちらは、現在でも通称「和田岬線」として、その一部が残っています。
その頃の路線図や配線図などを見ると
その規模は広大で、上手く発展し時代とマッチしていたら
ハーバーランドへJRの直通列車が走っていたかも知れないなぁ
なんて思うのは鉄道マニアの悪い癖ですね。
「夏草や兵どもが夢の跡」また、機会を作って
神戸の貨物線の廃線跡などを辿ってみたいです。

すみません、また、随分、鉄分が濃くなってきましたね。
修正します。

神戸港は、1980年代に入ると香港・台湾・シンガポール・韓国などの港湾が台頭し始め
シェアが低下し始めます。
そして、1995年1月17日の兵庫県南部地震により、神戸港は甚大な被害を受けます。
復興は2か月後には摩耶埠頭でコンテナの積み下ろしが再開され
2年後には全面復旧しました。
短期間での復旧を遂げましたが、阪神淡路大震災は神戸港のシェア低下に拍車をかける結果となってしまいます。

2004年には、大阪港と連携し、スーパー中枢港湾「阪神港」の指定を受け
コンテナ物流面での国際競争力強化を図っておられるそうです。

一般には神戸港は「ハーバーランド」のイメージで
umie MOSAICの
おしゃれなカフェや夜景スポットとして
人気を博しています。
コロナ禍で人の移動が制限されて
好調だった活気が、今後、どのようになっていくのか心配ですが
先日のハーバーランドに訪れた人たちの楽しそうな笑顔を見ていますと
少し安心できるような気がしました。


本日もご視聴いただきましてありがとうございました。
それでは、今日も素敵な1日をお過ごしください。
hide急行でした。