大きな余震が続く中、みんな身体を寄せ合って、倉庫みたいな所で焚き火をして過ごしていました。
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割と大きめな焚き火の周りに集まり暖をとりました。
火番が必要だったので、その役をかってでました。
もう半日位、雪降りしきる極寒の中、高いヒールで立ちっぱなしでつま先は感覚がなくなっていました。
 
それでも、ぐったりしている周りを見ると、何としても気丈に振る舞わなければいけないと、どこかで感じていた私
話す気力なんか無くても、立ちながら火番をする事で
誰かの役にたちたかったのです。
 
 
 
そして、夜がふけ
誰から言い出したのかわからないけど、いつの間にか就寝する事になりました。
さっきの崖のような所の下にあった駐車場に停めてあった車にそれぞれ身を寄せ合い
私は幸いにもニッサンのワゴン車の試乗車に乗せていただいて、少なくとも狭い思いをすることなく過ごせました。
 
ただ、問題だったのは
試乗車
だったという事。
試乗車には、あまりガソリンが入っていませんでした。
すぐにガソリンは尽き
暖房がつかなくなって、どんどん車内の気温も下がっていきました。
 
 
気を張っていたせいか
寒かったせいか
余震が続いていたせいか
あるいは全部か
なかなか寝付く事ができず
 
結局30分位しか寝れていないような感じでした。
 
妙にきれいだった、怖い位に静かだった夜空。
 
 
頭をよぎるのは、家族の顔、親友の顔、親友との約束、彼氏の顔。
早く、早く、みんなに会いたかった。
 
 
 
 
そんな事を考えていたら、いつの間にか夜があけていました。
 
明るくなって辺りを見てみると
半日前に通っていた道には、毒々しい色のヘドロがふくらはぎ以上の高さまで積み上がり
私が追い越してきた車は無数に横転、衝突していて
大きなトラックは横たわり道をふさぎ
電柱は根元から折れていました。
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目の前にあった薬局の一階は骨組みだけを残し、吹き抜けになっていました。
 
悲惨な状況としか言えませんでした。
そこには見知った風景は微塵も残っておらず、ヘドロからは異臭が漂っていました。
 
薬局から流れ着いた食料を各々調達し、倉庫に持ち帰り
少しずつ食べる事にしました。
 
 
 
それでも、不思議とお腹は減りませんでした。
それよりも、帰った時に、みんなに食べるものをあげたかったので
私に配られた食料は全て食べずに鞄に入れました。
 
朝から晩まで空を飛び回る、自衛隊だかマスコミだかわからないヘリコプターに向かって
全身を使って助けを大声で叫びました。
それでも、どこに降りるでもなく、誰を助ける訳でもなく、空を飛び回るヘリコプターに絶望を味わいました。
 
 
そうしているうちに、日が経ち
寝起きを共にしていたおばさんが迎えが来ると信じていた私を半ば無理やり説得し
朝早く、自分の荷物をまとめて、出発しました。多分7時かその前位だったように思います。
私が目指したのは、母親から最後の連絡があった時に言っていた 鷹来の森。
 
私がいた所から車で向かっても大体40~50分かかるような所です。
 
殆どの道が冠水し、通れなくなっていて
帰り道を模索しながら、少しずつ前に前に進みました。
途中おばさんとも別れ、大型スーパーで食料を無料配布していたのでそれを調達し
 
靴ズレで覚束なくなった足で、目的地まで歩きます。
途中、親切なお姉さんに車で目的地まで乗せてもらいました。
そこで、一生懸命母親と妹の車を探しましたが
 
残念ながらみつかりませんでした。
 
同じような名前の場所があるので、もしかしたら聞き間違えたのかと思い、そこまで移動しました。
 
 
頂上まで登っても、探している車と人は見つからず
そこで自衛隊の人と出会い、車に乗せてもらい、近くの避難所を全てまわりました。
 
どんなに探しても探しても、待ち受けているのは絶望ばかりで、泣きたくなる衝動を必死について堪え、次々まわりました。
 
途中、寄った避難所で
少しだけでも休憩するように!と強要され
貴重であろう水をいただいた時、
 
 
『大変だったね、すごく泣きそうな顔してる』
 
『…ありがとう、ございます』
 
自覚はありませんでしたが、相当顔に出てたんでしょうね。
確かに色々と考えたし、身体使いすぎてたのに、ちゃんと休めていませんでした。
 
 
だけどまた、その避難所にも、お母さんも妹もいませんでした。
 
そして泣くように縋った最後の避難所。
 
そこには、おばあちゃんの名前が書いてあったのです。
 
 
奇跡かと思いました。
見間違いなんじゃないかって、何度も何度も見返しました。
でも間違いなんかじゃなくて
 
 
嬉しくて嬉しくて、ただ嬉しくて
動かない足を、力の限り動かして、妹と母親の車を探しました。
 
感動、としか言いようのない再会。
言葉にならない思いが、目から溢れて
声をあげて泣きました。
 
そして、力が抜けたのか
私の足はしばらく動きませんでした。
 
気が付けば、辺りはもう真っ暗になっていました。
 
二次避難先は、その運送会社のトラックの荷台でした。
 
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見た目じゃ解らないかもしれませんが、成人の男性が上り下りするという事を想定して作ってあるので、背の低い私には、上るのですら困難でした。
それでも何とか人の手を借りず、自力で上り
既に荷台にいた人たちと少しだけ話をしました。
 
そんな中、次々に津波にのまれ、不時着した人たちが荷台に運び込まれ
寒さでガタガタ震える人に、タオルを貸したり背中をさすったり
 
運送会社にあった着替えなどを貸し合いながら、形だけでも、なんとか寒さを凌いでいました。
 
 
 
 
 
そんな事も束の間
 
どこからともなく流れた情報は
 
第2波は20メートルを越す
というものでした。
 
 
避難したとはいえ、20メートルもの高波が来たのでは、ここは一溜まりもない、という結論に至り
 
しかも、第2波到着予想時刻まで、そう時間は残されておらず
急いで、作業用の脚立を縦に開ききった状態のものを崖にかけて
一人一人、となりの山に逃げました。
 
 
sketch book-CA3F1274.jpg↑山、というよりは崖、でしょうね
写真じゃやっぱり解りづらいですが、かなりの急斜面で、スニーカーを履いてる人ですら長時間いるのはキツいような状態でした。
 
徐々に辺りは暗くなり
ついには、夜になりました。
予想された第2波は来る気配が無かったけど
それでも、大津波警報はまだ解かれていなかったので、むやみやたらに下に降りる事は出来ませんでした。
 
でも、次々に津波にのまれながらも、命からがら逃げてきたご老人が引き上げられ
唇は真っ青、むしろ紫色で
海水で濡れ、砂まみれの身体で、寒そうにガタガタ震える姿には
 
本当に胸が痛みました。
 
 
当時私は、コートに緑色のカーディガン、ワイシャツに、下には薄い生地の長袖を着ていたので
次々に着ている物を貸して、私はワイシャツとスーツのスカート、だけの状態でしたが
震える背中をさすり、その人の名字や、もうすぐ降りれるから!などと声をかけ続けました。
 
さすっている最中、またしても奇跡が起こりました。
 
 
私のケータイが着信を知らせたのです。
 
相手はお母さん。
すぐに電話に出ました。
 
『妹から全部聞いた、今どこ』
 
『今、伊原津。無事に会えたみたいで良かった』
 
『とりあえずはね。みんな無事だから、安心して』
 
『お母さんの所に行けって言ったっきりだったから、不安だったんだ』
 
『大丈夫、うちらはコレから鷹来の森にいくから!迎えに行くから、それまで待ってるんだよ』
 
『わかった、ありがとう。待ってる』
 
 
 
 
運命とは悲惨なもので、そうこうしているうちにケータイの電池の残量がゼロになってしまい、会話が途切れてしまいました。
 
 
電話が終わった後、みんな私の方を見て
 
『あんたのケータイ貸して』
『どこの会社?』
『なんで繋がるの?』
 
などと言われましたが、私にもなぜ電話が繋がったのか解らない事を告げ、もしかしたら電話をかけ続けたら繋がるかもしれませんよ
そう言ったらみんな静かになり、黙々と電話をかけ続けていました。
 
それでもまだ、危険な状態は続きました。
 
でも、寒さに震える人達の状態はいよいよ限界に達しようとしていました。
 
そんな時、
 
もう津波が来ても良いから、温まりたい
という声が次々に聞こえ
ついにはやっと、下に降りる事になりました。
 
下に降りる時、もうみんな体力的にも限界が来ていたようで、登った時のように脚立では降りる事が困難になっていました。
なので、運送会社から、荷台が動く機械を出してもらい、具合が悪い人、子供、老人といった順に何人かづつ下に降り始めました。
 
燃やせる物は全部燃やして、みんなで代わる代わる暖をとりました。
着ていた衣類からは、水蒸気が出ていました。
 
sketch book-CA3F1276.jpg↑暖をとった場所。ここに2箇所火が炊かれました。
 
 
 
もう何時になったのかすら、解る人は居ませんでした。
 
 
 
 
 
3月11日
あの日、私たちは
必死に“生きる事”に
夢中で、ただ目の前の道をひた走りました。
 
2時46分
当時私はお昼休憩から戻り、仕事を再開させていました
ちょうど、前日か前々日かにも大きな地震があったばかりで
今度地震がきたら、蛍光灯の下に居るのは止めた方が良いですね
…なんて、事を言っている最中でした。
 
突如揺れ出した辺り
次第に今まで体験したことの無いようなレベルまでに揺れが激しくなり、上下左右に揺れる地面に足を取られ、身動きが出来なくなり
上司である男性に、抱きかかえられるようにして建物から脱出しました。
 
あちこちでガラスが割れる音と物凄い地響きの音が既にしていました。
不安になった人たちが、道に出て、辺りを見ていました。
隆起や陥没をし始めた事を見ていち早く状況を察知した人は、荷物をまとめて、車で移動をし始めていました。
 
 
私は、寒さと不安でガタガタ震える手で、必死に電話をかけ続けました
 
妹でも良い、お母さんでも良い
お願いだから、繋がって…!
 
何度も何度もかけ直しました。
呼び出し音すら鳴らず、機械的なアナウンスが、ケータイから聞こえてくるだけでした。
 
今思えば怖かったんでしょうね。
それでも諦めきれず、ギュッとケータイを握りしめていたら
奇跡的に、妹から電話がかかってきたのです。
 
あんなに早く電話に出た事なんか無いっていう位に素早く通話ボタンを押し、耳にあてる。
すると
 
『あーっ…良かった、やっと繋がったよ』
 
電話越しに聞こえてきたのは、普段は泣かない妹の、涙声でした。
電話が繋がった事に私は安心して、無意識的に妹を泣き止ませようとしました。
非凡な状況だって、解ってるくせに
馬鹿みたいに普通を装って。
 
『なに泣いてんの、大丈夫だから』
 
『泣くような状況だ、ばか』
 
『うん、おばあちゃんと漣(犬)は?』
 
『…いるよ』
 
『なら、お母さんの所に行きなさい、お母さんと一緒なら、必ず助かるから』
 
『わかった、あんたもちゃんと帰ってきてよね』
 
『当たり前でしょ?…んじゃ、今から帰るから』
 
そう言って、電話を切りました。
そして、会社に置いてあったブランケットを持ち、社長に帰る事を告げ、車で家に向かいました。
 
 
…でも
 
遅かった。
 
 
 
信号機は停電の為、既に使い物にならなくなっていて、道は大混雑
全く進まない状況の中、車でケータイの充電をしつつ母親に電話をかけました。
 
そしてそれから何分か、何十分か、いつの間にか近くの交差点まで車は進んでいました。
しかし
その交差点にさしかかった所で、歩道橋にいた男性が大きな声で
 
 
 
 
 
『津波がきたぞーー!』
 
 
 
 
 
 
一気に不安に煽られ、車から道路を覗き込むと既に徐々に水が浸水してきていました。
 
 
(…やばい)
 
 
胸の当たりがギュッと締め付けられ、熱くなり
このままじゃ本当に死ぬ
そう、直感しました。
 
そこで私は腹をくくり、事故を覚悟でクラクションを激しくならし、それでも進まない事を確認すると
反対車線に飛び出し、少しだけ高いところに車を停め
エンジンを切り、ブランケットやバックなどを持ち、鍵までかけて走りました。
 
sketch book-CA3F1271.jpg↑車を停めた場所
 
sketch book-CA3F1272.jpg↑停めてから、このドラム缶の上を通って飛び越えました
 
 
生きる為に、走って、走って、何とか人が居るところまでたどり着きました。
 
そこで1歳になるかならないか位の子供を抱えた夫婦に出会い
その子供に、私は車から持ち出したブランケットをあげました。
 
偽善的かもしれませんが、目の前のこの子の力になりたい、と
本能的にそう思っていました。
 
 
 
 
sketch book-CA3F1270.jpg↑当時はもっと雪が積もっていましたが、この山に一時みんな逃げ込みました
 
 
 
 
しかし、私が駐車した所はガスの会社で
少しずつガスが漏れたような臭いが充満し
さすがに危険と判断した人たちから、隣にある運送会社のトラック置き場まで移動しました。