昨日は一日中泣いていました。
娘も昨日から休みを取っていて2人でデイジーに触れながら話し泣き暮らしていました。
私も娘もメンタルが弱いのでそれを守ろうと感情をコントロールしてしまいます。
それが本当の感情に蓋をしてしまい後々響く事になるのです。
デイジーはそんな私達に「自分を癒して。悲しみを無いものにしないで」と伝えてくれたのです。
今回のデイジーの旅立ちについて、母の旅立ちがなければもっと耐えられなかったかもしれません。
自分を責めるだけでそれをしている間にデイジーは逝ってしまったかもしれません。
母とデイジーがあまりにも似ていて
それまで普通に生活していて、不調が出てきて検査したらすごい悪かった。
それから早いスピードで悪くなり旅立つ。
でも苦しむ事なく安らかに旅立つ。
食事を摂らない事とかその様子が母とデイジーと重なります。
ガンだから腎臓だからと言うより何かの「意思」を感じました。母にしてもデイジーにしても。
自分で命をコントロールしているような。
私は母の余命宣告を受けて「とりあえず受けられる介護サービスはみんな受ける」と次々に契約しました。
母の時間が少しでも快適になるように…と。
母は「必要無い」と思っていたようですが、私がお願いしたものを黙って受け入れてくれました。
最後のヘルパーさんだけは母が「もう帰って」と自分の意思で断り、その数時間後に旅立ちました。ヘルパーさんのお手伝いは一度も受けませんでした。
母のガンがわかり2ヶ月で何の治療もせず「いま」を生きていました。
母のそんな姿を見て、母の友人や親戚そして私も「母のように生きたい、逝きたい。」と思いました。
それをデイジーは見ていました。
母の真似をした訳ではないでしょうが、母と同じような旅立ち方でした。
違うのは飼い主である私が母の時とはまるで違ってワタワタした事。
母の時は受け入れられた事がデイジーにはできませんでした。
母の時は在宅医療、訪問看護師さん、ケアマネジャーさんと相談できる人がいました。
私が情報を集めなくても「こんな事に困っています」と言えばすぐに対応してくれました。
「看護している人に負担をかけない」
それも在宅医療、在宅介護に大切な事なのだと教えていただきました。
動物はどうなのだろうか?
私はデイジーに少しでも回復してくれる事を願いました。
治らなくても通院を続けながらでも生きてくれる事を願いました。
そのためにあれやこれやと探し買い漁り疲弊しました。
どんなに弱っても生きていて欲しいと願うのは飼い主であれば当たり前なのだと思います。
デイジーはそれを選びませんでした。
長く生きるより大切な事がある事を母とデイジーが教えてくれました。
デイジーの旅立った顔はとても美しく安心と信頼と自分の一生を誇りに思っているのがよくわかります。
母もそうでした。
闘病期間が短い事や薬を多量に摂取していない事もあると思います。
デイジーからも母からも「ありがとう」が伝わってきました。
愛するものが旅立つ事は痛恨の極みです。
この悲しみと喪失感はどうしようもないです。
もっと生きて欲しかった。
もっと頑張って欲しかった。
もっと一緒にいたかった。
それは残される側の思いだけです。
人も動物もその人生はその人、その動物のものです。
それをコントロールする事はできません。
すべきでもありません。
母とデイジーの意思を尊重します。
母とデイジーからは改めて「人の医療」「動物の医療」を学びました。
これからの私は「動物にとって必要な医療」「飼い主を支える医療」について向き合っていきます。
それがデイジーが命をもって遺してくれた事だと思います。
それまではデイジーのいない悲しみに浸っています。
もうすぐデイジーの旅立った時間です。
私の隣にいるデイジーの身体に触れられる幸せを感じています。
横尾美香