・どうしてミントは目が見えなかったの?脳の病気を持ったの?歩けなくなってしまったの?
ミ「視覚でなくても見なくても見える。頭で考えなくても深く的確に感じることはできる。歩けなくても食べられなくても移動はできる。生きられる。」
「頭で考えて目で見てわかることが真実なんだという価値観の破壊だよ」
「僕たちを見て”可哀想”だと言われたことにママは違和感を感じていたでしょ。なぜ可哀想なのかわからないって言ってたでしょ。自分は幸せで満足していたそれこそが真実だったんだ」
「人の幸せを他人の価値観を押し付けることはできない。でも、本来幸せなのに他人の価値観で苦しんでいる人がいる」
「その価値感を破壊し解放して本来の幸せを自分で見つけられるようにするのがママのやるべきこと」
・ずっと聞きたかったのに聞けなかった。なぜこのタイミングだったのだろう?
「ずっと頭を使ってきたから。まだまだやるって頭を使っていたから。頭で考えている間は理解できないから。わかっているけどいまはやらなくちゃ・・って、僕の言葉はスーって通り抜けていくから。これまで何度も聞こうとしていたけどやめてたでしょ?」
「自分が他人の価値観の中にいるのに、人に本来の幸せなんて言っても心からではなく頭と声を使っているだけでしょ、それこそ価値観の押しつけだよね」
「いまは自分の価値観で生きられるようになっているから、いまのタイミング、これだけの時間が必要だったんだよ。もうママの感性で生きたらいいんだよ。」
「こうしなくちゃ、こうあるべき・・って窮屈でしょ。その中にあることで安全で安心なこともある。そんな時間もある。でも、もう窮屈でしょ?とっくに苦しいでしょ?そこに気づいたら楽になるよ」
「ママが僕と生きてこれほど幸せだったと思えるのはなぜ?心で繋がっていたから。考えている状態じゃなかったから。誰かから見たら可哀想な僕の姿をママは姿ではなく魂を感じて、見て、可愛い、愛おしい、大好きだと言ってくれた。ママは気が付かなかっただろうけど僕は知っていたよ。」
「ママは本来は頭や目で見ることだけでなく感性で動きたかったのだけど、頭は良くなければ
いけない、物知りであるべきだと教えられてそれに応えるようにすることで自分が認められるんだと生きて来たから。人の価値観の箱に入って満足していたから」
「だから僕と出会ったんだよ」
「自分は自分。人は人」
「比べることはない一緒である必要はない」
「ママらしく生きるんだよ。もうそれがわかる時」
私はアニマルコミュニケーションはやたらと受けるものではないと思っています。
やたらと動物に聞くのってやはり動物に失礼な気がするのです。
アニマルコミュニケーションから受け取る動物からのメッセージって時に「人生を動かす」こともあるのです。
私は2009年からアニマルコミュニケーションに携わっていますが「ミントからのメッセージを受け取ろう」と覚悟ができたのは4年前のこの時です。
アニマルコミュニケーションで受け取ったメッセージを「育てて欲しい」と思っています。
浅い内容、日常的な会話であればその必要はありませんが、深く自分の中に落とし込んだメッセージは「ほんのきっかけ」に過ぎないのです。
そのメッセージを何ヶ月も何年もかけて自分の中で思い出しその時にどう感じるか・・・
あの時は「そっか!」ぐらいだったのが年月が過ぎた「いま」どう感じるのか・・・
それが動物に対する敬意でもあると思うのです。
簡単に聞けるからなんでも聞いちゃえ!「教えて教えて~」
これは私の思うアニマルコミュニケーションではありません。
4年前のミントからのメッセージを読み返してみて
「自分が他人の価値観の中にいるのに、人に本来の幸せなんて言っても心からではなく頭と声を使っているだけでしょ、それこそ価値観の押しつけだよね」
この言葉・・・結構「いまの私」には響きます。
4年前の私にこの言葉は響いてなかったかもしれません。
いまの私には響きます。痛いほどに。
ハートフル講座アドバンスクラスでは「何度も聞いてみたいと思うアニマルコミュニケーターになるより、その子の生涯において生きている時に1回、旅立った時に1回その子からのメッセージを受け取りたい・・そう思って頂けるアニマルコミュニケーターでありたい」とお伝えする時があります。
これが私の願いです。私はそんなアニマルコミュニケーションができるコミュニケーターでありたいのです。
4年前にミントが寄せてくれたメッセージが今の私にも生きるのです。
ミントはいまも生きているのです。
いつもいつまでも私の成長を見守ってくれているのです。
なので私はやはり「動物への敬意」は持ち続けます。
【陽だまりのしっぽチャンネル】