396 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ① | ひぼろぎ逍遥

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396 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ①

 

20160908

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 

 

 

 新著「日本国の誕生」小松洋二著(不知火書房)の関係で炎天下の福岡市内を走り回っていると、静かに休憩できる観世音寺は緑に溢れコンクリートやアスファルトに覆われていない土の地面の駐車場があるためそれだけでも気温も低く、ほっとします。

 

 何度も参内している観世音寺ですが、北東には7世紀ともされる日吉神社が鎮座しています。

 

 北東に鎮座している事から、観世音寺の守護神との性格を持たされているようです。

 

 この神社も過去何度か見ていますが、少しは目も肥えてきたのではないかと増長し改めて見せて頂く事にしました。 


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日吉神社 カーナビ検索 福岡県太宰府市観世音寺5丁目11

 

 

 

 日吉神社についてはこれまで何度も取り上げて来ましたので良くお分かりだろうと思いますが、日枝山王宮、山王権現、松尾神社、佐田神社(出雲の佐田大社は断じて猿田彦などではない!)…であり、阿蘇の草部吉見神=ヒコヤイミイ(ヒコハエミミ)と宗像大社の市杵島姫との間に産れた大山咋(オオヤマクイ)神その人を祀る神社です。

 

 

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同社参拝殿の縁起縁起

 
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社殿は至って簡素で、境内摂社や末社の類も一切ないことから、縁起にある二神=大山咋、大己貴神(オオナムチ)のうち大国主=大己貴神が本来の祭神であったことが一目瞭然です。

 

最低でも7世紀初頭までは、この大国主=大己貴神こそが九州王朝の国寺とも言うべき観世音寺の鬼門を守る守護神であったことが分かるのです。

 

 社殿の神紋はと今回改めて確認すると、「日」なる文字が浮かんでいました。

 

以前はただの模様と見過ごしていたのですが、日吉=日枝の意味だったのです。

 

 

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秀吉の九州侵攻時の逸話は興味深いものがありますが、大山咋の子が贈)崇神天皇=ツヌガノアラシトになることから、権勢を誇った藤原氏も阿蘇氏を起源としている事を十分に承知していた秀吉(木下家への入婿であり紀氏の系統)はこれ幸いと領地没収へと運んだことが見て取れます。

 

 この木下家は五七桐紋を使う氏族で、入り婿となった秀吉は相当に優秀な男と見込まれて婿となった切れ者だったことがその事だけからも想像できそうです。

 

 ただ、入婿だったことから、生涯、正室の ねね には頭が上がらなかったとされています。つまり、“秀吉が卑しい百姓以下の身分”とか猿とか言った表現は後の徳川による貶めるための宣伝でしかないのです。