171 柿下人麻呂が詠んだとされる「雷丘」実見
20150206
久留米地名研究会 古川 清久
本サイト「ひぼろぎ逍遥(跡宮)奥の院」は百嶋神社考古学に重点を置いたものとして書いていますが、百嶋先生は六十年以上に亘る研究成果の全てを奈良県内の某神社に送り続けて来た。
そこには、現在も奈良に移動した九州王朝があるとまで言われていました。
ただ、その神社がどこかについては百嶋先生とその神社とのお約束からどこかについては告げられないまま亡くなられてしまいました。
ただ、当方も目星を付けて来た神社が数社あり、以前から直接ご訪問し確認したいと考えてきました。
今回、筑豊地方で発見された超大型古墳に対する打ち合わせのために大阪府豊中市に行く機会を得た事から、その後奈良に向かうことができればその確認作業を開始したいと考えていたのです。
そこで、想定していた神社について久留米地名研究会の事務局次長と相談したところ、私が想定していた神社ではなく別の神社だろうと提案されたのです。
勿論、この神社も想定していたことから、そちらを先行することにしたのです。
結果は事務局次長が言ったとおりでした。宮司にお尋ねすると直ぐにお分かりになり、以後、連絡を取らせて頂く事にした次第です。
この神社がどこであるかは、まだ、公表できませんが、とりあえず気になっていた問題の一つが解決した思いになりました。
そこで、奈良の神社を実見しようとしていたのですが、同行者の案内で古墳や博物館巡りをすることにしました。
実のところ、天気も悪いうえに寒くもあり、神社巡りには不適で、結局、資料館、博物館の方が、まだ、ましだったのかも知れません。
古墳といっても特別に玄室を見られる訳もなく、それなりの見る目が無い人間には興味が湧かないのは道理であり、随行者は古墳の専門家であり教えられることばかりでした。
そうした中、いつしか一行は人麻呂が詠んだとされる雷の丘付近に来ていました。
「万葉集」などという不要不急のものへの知識は一切持たないのですが、“和歌には飛鳥を舞台にしたとされる秀歌が多い”などと聴いた風な話が堂々と流通、通用しています。
私達九州王朝論者にとっては、「万葉集」などの宮廷文学の多くも、かなりの部分が九州を舞台にして歌われたものであり、例外的に地方としての中国、畿内…も描かれているとするのですが、ここにも、人麻呂の詠んだ歌と言われるものの舞台があるとされているのです。
「雷」という交差点があり、十メートルもないような小丘が、偉大な歌聖と称された人麻呂が詠んだ歌の舞台とされているのです。
柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
すめろぎは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも
(二百三十五番)皇(すめろぎ)は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為<流鴨>
王に獻(たてまつ)るその歌
きみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます
(二百三十六番)王は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座
まず、一目でおかしいと思われる方の方が正常ではないでしょうか?
こんな小丘を「雨雲の雷の上」と表現しているはずがないのであり、場所が違うのは明らかで、無理やりこじつけそこで済ませている万葉学者なるものの底が見えた気がします。
どう考えても、九州を舞台にして創られた歌を無理に奈良にあてはめ馬脚を現した事になっているのです。
この事は九州王朝論者の中では、ほぼ、常識に近い話であり、「神功皇后紀を読む会」主宰の福永晋三氏が始めに主張し、古田武彦氏なども著書で明らかにしたものです。
しかも、236番歌では原文では明確に「雲隠る雷山」としているのであり、万葉学者なるものの馬鹿さ加減、恐らくおかしい事は分かっていて如何に思い込み言いくるめて学者ぶろうとしている事が見えた思いがしました。
この雷山とは福岡佐賀の県境の山=「雷山」以外にはありえようがないのです。
下に見える湖(ダム湖)は雷山神籠石背後の貯水池です。
では、九州の雷山には何らかの痕跡があるのでしょうか?以下をお読み下さい。
「235 大君は神にしませば、天雲の雷の上に庵らせるかも」。これは「天皇、雷丘に御遊(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌一首」の詞書がついている。私は飛鳥の雷丘に行ってみて、あまりに小さい山でビックリした。ここに登った天皇は誰かはっきりしない。「天皇が、ちょっとヒマがあって雷丘に登り、椅子にでも掛けておられる」様子を「雷の上に庵らせるかも」と詠んだ。それで天皇は生き神様だと。オベッカもいい加減にせいと云いたい。人麿とはこの程度の歌人か。
ところがこれを九州へもってゆくと、背振山脈の第二峰が「雷山(らいざん)」。千如寺という重要なお寺と雷神社がある。江戸時代の図によると、山頂に「天ノ宮」、中腹に「雲の宮」があった。標高九五五メートルという山だから、飛鳥の雷丘とはスケールが違う。もちろん雲がたなびいている。祭神はニニギノミコト、それに天神七社、地神五社が祭られている。人麿は太宰府へ行った。「大君の遠の朝廷…」という歌が残っている。だから雷山で歌を作っても自然である。「ニニギノミコトは神様になられて、天雲の上に聳える雷山の上に庵を作っておられる」。実際には神社があってそこにいらっしゃる。大変ナチュラルそして荘重な歌だ。人麿の作にふさわしい。人間を生き神様にする必要はない。これを飛鳥での作とすると、天皇のうちの誰かハッキリしないというのがすでにおかしかった。この歌を万葉集に変にはめこんだので、天皇を生き神様にするもとになったのだという、大変な問題に気がついてきた。そうすると人麿の次の歌にも着目せざるを得ない。
古田史学の会HP「新古代学の扉」から 1997年 8月15日 No.27
六月二八日 古田武彦講演会要旨(文責 編集部)
古田史学会報
失 わ れ た『 万 葉 集 』黒塚と歌謡の史料批判 万葉集の歌より
最後に、愚かしく見えるのは、原文では、「天雲之 雷之上尓」「雷山」とあるものを、無理やり奈良の歌としたいがために、雷丘(いかずちのオカ)と詠ませている事です。
逆に、「そう読めるところが万葉集に精通した識者である」とでも言いそうですが、本人もさすがに山ではおかしいと思っていたが故に、丘と呼び習わせているのが良く分かる一例でした。
結局、「万葉集」を持ちあげる万葉集愛好者とか万葉学者のさもしさだけが目に着き、現地で、歌と現地を結び付け感慨に耽ることもなく、引き返した次第でした。