170 神社のお賽銭とはどのようなものだったのか? “岡山市安仁神社の例から” | ひぼろぎ逍遥

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170 神社のお賽銭とはどのようなものだったのか? “岡山市安仁神社の例から”

20150201

久留米地名研究会 古川 清久

岡山市の牛窓からもそれほど遠くない吉井川河口付近(旧太伯村 岡山市東区西大寺一宮895に、安仁(アニ)神社があります。

この神社が本当の神武天皇御巡幸(別王崇神の「神武東征」とは別)に絡むどえらい(列島大率紀氏=太伯)神社なのです。

ただ、この事を書き始めると非常に長くなるため別稿としますが、ここでは、この神社の参拝殿で見掛けた非常に面白い習俗(民俗)をお知らせする事にします。

最近は「神社ガール」と称する一群の人々を良く見掛けるようになりましたが、この不公平極まりない社会の中で自ら奴隷的労働に身を置きながらも「自分とは一体何者なのか…」「自分はどこに行こうとしているのか」「いかに生きて行くべきなのか…」といった問いへの答えを求めて彷徨い続けているのかも知れません。

それはさておき、その神社ガールと言えども、尚、お賽銭をあげ、願い事(肖り)をされる事は忘れておられないようで、多少とも民俗学的(実は民族学的)に貴重な神社の経営に寄与してもらいたいと思うばかりです。

さて、この神社でも参拝殿正面のお賽銭箱の上に白い箱が乗せられているのがお分かり戴けるでしょうか?実はお米を入れる箱なのです。


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今でこそ、正月に一万円札を奮発して御利益を期待する向きがありますが、江戸時代と言わず、ほんの百年前まで、人口の九割を占めた農民が旅以外に日常生活に現金を使う事はなく、金本位制ならぬ米本位制が当たり前の事だったのです。

このため、神社のお賽銭と言えども、お米をあげる以外の方法はなく、貴重な紙に貴重なお米を僅かばかり入れ、その紙をひねって放り込むのが習わしだったのです。

事実、菊池(川流域)地名研究会のエース吉田宮司も「うちの神社でもたまに紙に米を包んで賽銭箱に入れられる方やお賽銭も紙に包んで入れる人がおられるが、これは古い時代の名残なのですね…」と言われていました(勿論、肥後弁丸出しで、でしたが)。

ところが、この安仁神社ではその風習が最近まで残っていたと見え、今、尚、お米を入れられる向きが強く、その延長上に賽銭箱だけではなく米を入れる箱を特別に設けておられる事が分かるのです。

まず、このお米だけでも神社の神官は労働することなく、たとえ粥を啜ろうとも容易に生き延びることができたのであり、集落の歴史から伝承や伝統を記録し伝え、知識人として地域に貢献することを期待されていたのです。

この、過酷な労働から解放される事の重要性は言うまでもなく、幸運にもそれに預かることが許された神官は、それ故にこそ地域から社会全体に働くことが求められているのであって、(勿論、この神社の話ではありませんが)、黒塗りのベンツを乗り回すような真似はするべきではないのです。

最低でも、賽銭箱の底を浚い僅かなお米や雑穀を粥にして生き延びた遠い先祖の思いを蘇らせて頂きたいと思うものです。


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お米を入れておられるお婆さんとかを直接お見かけしたことはありませんが、以前、鹿児島県の旧溝部町の前玉神社(実は、埼玉県行田市の前玉神社の元宮)に訪れた際にお米がお賽銭として入れられているのを見た事がありました。

 ところが、この安仁神社のお櫃には数人と思われる方がお米の御ひねりのお賽銭を入れられていました。

 いくら米どころの備前の総鎮守であり、吉井川河口に位置する古代の湾奥の地であったとしても、これほどはっきりした民俗が残っていたことには驚かされました。

 大衆演劇で一万円札のレイが贔屓の人気役者に掛けられるのはフラダンスからかも知れませんが、いまでも500円玉の何枚かを紙に包んで舞台に投げる風習も、元はお米や雑穀のお捻りのお賽銭の風習だったことが見えてきたと思います。


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 最後になりますが、百嶋神社考古学では、①神武東征は存在しなかった!②神武東征を行ったのは別王の崇神(天皇)だった!③しかし、かなり長期間の神武御巡幸は存在した!④神武の後2派に渡り九州王朝の東遷が行われた。⑤最後の東遷は仁徳天皇の時代だった。…とします。

 その神武御巡行の地の一つの舞台が、この安仁神社の地であったとしていますが、初代神武(カムヤマトイワレヒコ)は倭の太伯の後裔であり、その名を残した旧太伯村に神武天皇の兄(腹違いながら兄は五瀬命)を祀る神社が残されている事は重要で、いずれその御巡幸の話もしたいと考えています。