169 久留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬市高原研修所周辺の神社 ④ “元宮神社”
201412026
久留米地名研究会 古川 清久
日田市天瀬町元宮神社正面
五馬高原周辺の神社を書いていますが、最も重要と思われる神社がこの元宮神社です。
五馬小学校の敷地に連続するこの神社の境内には五馬媛之命墓なるものがあります(標石の文字)。
一方、その傍には「元宮古墳(前方後円墳にして、頂部で長さ四十米、巾三十米)」と書かれた標柱(木製)が置かれているのです。
これらのことから、普通に考えれば他にことわりがない以上、古墳の主とは五馬媛その人ではないかと思い込んでしまいそうです。
ところが、地元の旧「天瀬町誌」“明日への礎”S61.3.1を読むと、公式には古墳とされてないようで、多少の混乱が認められます(多分、発掘調査が行われていないのでしょう)。
では、この標柱は一体誰が立てたのでしょうか?神社側が伝承によって立てたのでしょうか?
まず、「天瀬町誌」の神社に関する部分(第7節寺院・神社)を読むと、
元宮神社 旧無格社
一 鎮座地 大字五馬163番地
二 神 祭(ママ 祭神の意味) 応神天皇
三 由 緒 不詳
では、102p以降の元宮「古墳」について見ましょう。
穴掘考古学の方々の主張については、正直言って利権集団に変節した人々による「日本書紀」摺り合わせ言説としか考えない事からあまり議論したくはありません。
ただ、一般的に考古学の方は古代史の世界に関して控えめに振る舞われ、積極的に発言されないのが普通なのですが、何故か、かなり大胆に踏み込んでおられるのも、最近、考古学会が大手を振って古代史を論じる傾向の先駆けとの印象を持ってしまいます。
ともあれ、元宮古墳は古墳とは判断されていないようです。
元々、発掘調査をしていない、若しくは、発掘調査の方法が、在る時点以降、奈文研、橿考研流のきちんとした調査スタイルに乗った報告書が出されていないものについては古墳扱いしないというレールがいつの間にか敷かれ、そもそも調査がされていないものに関しては一切古墳扱いしない事にされているのですが、だからと言って発掘調査が行われていないものまでも古墳でないと断定されるところが非常に興味深いと思うばかりです。
勿論、当方は古墳であろうが古墳でなかろうがどうでも良いのですが、ここでは、発掘調査をしていないものについても古墳ではないとしている事が確認できたとだけにしておこうと思うものです。
ただ、五馬媛が古墳に葬られるような人物であったかどうかの知見だけが関心の対象だったのです。
では、元宮とは何でしょうか?玉来神社が五馬媛を祀り、元宮神社に五馬媛神社の墓と称するものがある以上、元宮とは玉来神社の元宮であると考えるのが自然な理解でしょう。
しかし、玉来神社の祭神は景行天皇と五馬媛とされ、元宮神社は応神天皇とされているのは奇妙です。
このことから、元々元宮神社には、本来、五馬媛が祀られており、その後、応神天皇が覆いかぶさり(恐らく八世紀初頭の宇佐八幡宮の拡大によったもの)現在の形になったのではないでしょうか?
ただ、気にかかる事があります。元宮神社の神紋が右廻り三つ巴紋になっているのです。
どうでも良い事ならそれまでですが、一般的に区別をつけるためにとこの様な変化を付けるのが通常であり、家紋の場合の侍分と百姓身分(次三…男)とか本家と分家もしくは庶流といったものです。
宇佐神宮も左三つ巴ですが、実際には尾長左三つ巴であり、この手の物も散見されます。考古学絡みの話は気分が悪くなるのでここまでとします。







