167 久留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬市高原研修所周辺の神社 ② “老松神社”
201412026
久留米地名研究会 古川 清久
166 久留米地名研究会天ケ瀬温泉五馬市高原研修所周辺の神社 ① “塚田の阿蘇神社”で取上げた塚田の阿蘇神社に入る分岐を通り過ぎ、さらに杖立温泉(松原ダム)方面に進むと、右手に茅葺の立派な社殿の神社がある事に気付かれるでしょう。それが老松神社です。
近年、登録無形文化財に指定されたとかいう標識が置かれていましたが、行政がこのような貴族じみた不要不急のことだけに執心するのも、行政が無用の長物となっている事を表しているかのようです。
格付けとは行政が行うべき事ではなく自然に形成されるべきものであり、それを人為的に操作する機関を造り天下りして甘い汁(税金を引き出す)吸おうとしているだけの事なのですが(世界遺産登録も同様)、
広告審査機構とかも実は諸刃の剣で、脅し強請りに繋がっているのであり、結局、行政に肖り利用しようとする者だけが得をするものでしかないのです。
もっと浅ましいのが、悲惨な海外の映像を流し善意の募金を集める機関を創り出しその長に天下りした連中が法外な報酬(月額数百万の給料とか…)を受け取っているもので、国民の次世代はまともな就職先もなく軽自動車と中古自動車で辛抱し、車離れはおろか、結婚さえできなくなっている状況なのです。
茅葺きの社殿は近年貴重この上ないものです
茅葺きの社殿は近年維持管理できなくなっており、貴重この上ないもですが、だからと言って茅葺ができる人を養成する事もせず、茅を保管するには倉庫から必要で、第一、茅が安定して取れるような茅場は河川護岸をコンクリートで覆い、国有地などの大きな茅場も特定の人間しか使えないようにしているのです。結局、行政は登録無形文化財に指定するだけなのですから、過疎地域の老人たちに維持管理を押し付け嵩む費用を加えることにしかならないのであり、本気で守ろうとしていない事だけは明らかでしょう。
そんな嫌な話はさておき、老松神社とは何か?から考え始めることにします。
老松神社と言えば、まず、太宰府は水城の老松神社、桂川町の老松神社、糸島の老松神社などが頭に浮かんできます。
ただ、「全国にあまたある天満宮に対して、なぜ、老松神社が別に存在するのか?」が気になります。
藤原氏が雷に打たれて死ぬなど一族の危機に際して、「道真の祟り」として「全国に道真を祀れ!」とした故事は知られていますが、では、その多くの神社(例えば天神様、天満宮…)とは、それ以前には如何なる神を祀っていたのか?が大きな謎として横たわっています。
例えば桂川町の老松神社は、主祭神を大国主神とし、大物主神、事代主神に加えて、菅原道真神、吉祥女、菅原神社、大山祇神社、興玉神社、福部神社、貴船宮を祀っています。
一方、水城の老松神社は652年(白雉3)の創建と伝えられ、当初、須佐神社と呼ばれていたが、872年(貞観14)に老松神社と改称したとされています。
このように、老松神社についてもその前身があるのであり、単純に道真を祀るものと考えて安心するのは構いませんが、本質は一向に見えてこないのです。
百嶋先生によれば、道真の一族は、ナガスネヒコの流れとヤタガラスの流れを共に先祖としているとしますが、老松神社を奉祭する氏族がどちらの系統であるかについては、ヤタガラスの系統ではないかとまでは言いたいところです。
前述の桂川町の老松神社もヤタガラス=土師氏の流れを汲むものと考えているのですが、どうも、この天ケ瀬町の老松神社に関しては、道真の隠棲地であった玖珠町の菅原地区に近いだけに、その直接の末裔の神社の様な気もしています。
北野神社といったら、一般に京都の北野神社を連想なさる方が多いと思いますが、本当の北野神社といったら、埼玉県所沢市北野、北野天神社が本家本元の北野らしいです。その次に北野として古いのが筑後川の北野、大きいですねあのお宮、そして、三番煎じが京都の北野ということです。
コノハナサクヤ姫関係の後世作られた歌です。『あー桜川、桜子や、桜か、雪か、波か、花、筑紫を離れて海山越えて、花の名所の桜川、親子ならでは来ぬものを』、これはですね、コノハナサクヤ姫関係の人物が実際、こういう目に遭っているんです。それを飾って、こういう名文を作っているんです。
管公の血統上のご先祖ともうひとつの血統上のご先祖を申し上げます。太宰府天満宮にお参りの時に、余り大きくない太鼓橋を二つお渡りになる。そうするとここに、安曇氏の志賀海(しかわた)神社がございます。これも道真公にとっては、ご先祖ですが、この神門を通って、この本殿をとおって、ここに天穂日命(アメノホヒノミコト)が鎮座しておられます。この人の胤が、ここ(武内足尼:タケウチタラシ二)についています。従って、こっち(天穂日命)もご先祖であり、こっち(武内足尼)もご先祖であり、どっちも正しいです。只、管公一族の場合はですね、こっち(天穂日命)を利用しておられます。なぜかといいますと、この人(武内足尼)のお兄さんは長髄彦なんです。当時は天下の反逆者といわれた、だから、うまく長髄彦を逃れて、こちら(天穂日命)のほうを利用された。天穂日命は豊玉彦ですよ。従って、ここには天穂日命の名前を上げて、母、武内足尼、その子供が武夷鳥(タケヒナドリ)と記しています。だからどっちも正しいです。ただ、管公は要領が良くて、時の流れに沿って、こっち(天穂日命)を採用なさっているのです。これをですね、確認するために何処に行ったら、これは痛快ということに気がつくかといいますと、鳥飼元宮ってご存知ですか?鳥飼元宮、昔の城南線鳥飼バス停留所、昔、市内電車があったころの城南線、鳥飼、鳥飼といってたところ、その鳥飼の電車の停留所の大変近い場所に鳥飼元宮があります(牛島注、現在の埴安神社、左殿の八幡神が鳥飼八幡宮の元宮とも言われている)。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=8362
そこにいかれますと、管公はどうなさっているかといいいますと、鳥飼元宮に行かれますと、このお宮は鳥飼埴安宮となっています、神社の名前は。そこに行かれますと、埴安神社のご祭神(埴安彦・埴安姫、この方たちは、武内足尼のお母様である櫛稲田姫のご両親)の神殿に、管公自体が潜り込んでいらっしゃるのです。鳥飼元宮、そしてその後でですね、いわゆる八幡と名前の付く宮が時の流れに沿って出世しすぎています。そして出世しすぎてだいぶ悪いことをやっています。悪いことを、だから、今、悪いこと競争をやっているのは、エビスと応神ですよ。だから、非常に武内足尼の計算は正確であった、自分(管公)たちの一族の先祖をこっち(天穂日命=豊玉彦)に持ってきた。非常に正解でしたね。あたりました。

