062 河野さんからのお問い合わせにお答えして(前編) | ひぼろぎ逍遥

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062 河野さんからのお問い合わせにお答えして


久留米地名研究会 古川清久

20140426


久留米地名研究会には、かなりの遠方からもご質問や情報が飛び込んできます。

 もちろん、ただの思いつきや、ちょっと聴いてみただけといったものに対し、ボランティアだけで逐一対応する余裕はありませんが、ちゃんとした申し入れで、価値のあるものには可能な限りお答えすることにしています。

 これは、以前から存じ上げていた島根県益田市にお住まいの米原さんという郷土史研究者を通じて、広島県安芸太田町にお住まいの河野○○さんから寄せられたものです。

概略を申し上げれば、「安芸太田(中国自動車道が通る島根県境に近い三段峡付近の山中の小都市)にかなりの河野姓があるが、その起源はどこだろうか?」…といったものでした。

 そもそも、中国山地の山奥と言えば、民俗学者の宮本常一が何度も入ったところであり興味は尽きません。

 当然ながら、現地を踏まず一切ヒヤリングもせずに、二階から目薬宜しく九州から想像だけで書くといったことに意味がある訳ではありません。

 ただ、ここでは、そういった可能性もあり得るといった程度の話として非常に薄い仮説を出させて頂いた訳です。

 まずは伝手ができたことから、時間的余裕ができ次第行こうと思っています。

 フィールド・ワークというものは、この伝手こそが成否を握る鍵であり、成果に直結するものなのです。

なんでも、河野さんは現地のボランティア・ガイドをされているとのことで面白くなってきそうです。

この一帯は非常に魅力的な場所で、たしか、五年ほど前に現地に入り三段峡温泉にも入っています。

 山陰には過去五十回近く入っていますが、その都度、民俗学の宝庫である中国山地の奥深い山村にも極力足を延ばすことにしています。

 まず、安芸太田という地名の持つ意味です。

 我々が見ると、直ぐに「安芸」は海士族の地(二音地名は大体海士族が付すもの)、「太田」「河野」は物部といった連想が走ります。62-1

 ただの思いつきじゃないかと言われそうですが、この手の話は所詮その程度のもので、詳細には現地の神社、姓名分布、家紋、寺院の性格を調べ、郷土史をひも解くことからしか解決はありません。

 ただ、現地だけを見ていれば分かるかと言えば、決してそうでもなく、過去何度となく戦乱が起き、事あるごとに山澤に逃げ込む人々がいた訳です。

そのルーツは意外と遠いところにあるものなのです。

 なぜならば、薩摩に落ちるという故事があるように、逃げるところは中央から遠い方が良いに決まっているからです。

 ここまで申し上げた上で、かなり荒い仮説を提出しておきたいと思います。

 と言っても、この河野姓についてはかなり前にある程度の見当を付けていました。

久留米地名研究会のHPには「田ノ浦」が掲載されています。

詳しくはそちらを読まれるものとして、概略について触れておきます。






日本にも船をカウ(ルア)ヌイ、タウヌイと呼んでいた人々がいた!


 かつて、東海大学(当時)の茂在寅男(モザイトラオ)教授が、『日本語大漂流—航海術が解明した古事記の謎』光文社 1981年の中で、古代ポリネシア語の発音と対応する言葉が『記紀』などに記載されているのではないかとしました。
 一例を挙げれば、「古事記」仁徳記には「枯野」という高速船のことが書き留められています。

一般には学者先生によって「枯れ野を駆けめぐるほど速い舟」といった訳の分らない意味に解釈されていますが、茂在教授は「枯野」字は表音表記でしかなく「カラノ」とか「カノー」といった発音の言葉があったのではないかとしたのです。

もちろん「カヌー」のことなのですが、通常、この言葉はカリブ海の原住民からポルトガル、スペインに伝わったとされています。

ただ、その源流をたどると北太平洋大環流に行き着くというのです。
 『日本書紀』でも「枯野」は「軽野」とされ、伊豆で造られたという記述が出てきます。 


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現在も伊豆の山間部に「軽野神社」があり、付近を流れる「狩野川」(カノガワ)が駿河湾に注いでいるのです。

舟を作る木を切り出し、狩野川を使って海辺へ運んだと考えられたのです。

この「軽野」や「狩野」という地名は各地で見ることができ、『常陸国風土記(ヒタチノクニフドキ)』には、長さ15丈(45m)もの大船を造った「軽野の里」のことまで記されているのです。

 また、志賀島の北の岬に勝間がありますが、茂在氏は「无無勝間(マナシカツマ)の小船、無目堅間(マナシカタマ)の小船のカタマはカタマランの事で「筏」。カタマラン=カタマラ船の寄港地とか、鹿児島の鹿屋市のカノヤもカヌーの寄る港を意味するといった事も書いています。

実は、『日本語大漂流—航海術が解明した古事記の謎』を読んだ当時、茂在教授は伊万里湾鷹島において、水中考古学に基づく元寇時の沈没船の発掘調査を行なわれており、たまたま、魚釣で鷹島に渡り、帰りのフェリーを待っている時に、発掘調査の一行に遭遇したことがありました。

ちょうど、騎馬民族国家論で著名な江上波夫教授も来られていた時で、二人の著名な学者を眼前にして興奮した記憶があります。

そして、後に触れますが、そのフェリーの発着港の殿ノ浦(トノノウラ)港も松浦党の殿様などではなく、「タウヌイウラ」であることを知る今、戦慄をさえ覚えるのです。

恐らく、茂在教授もそこまでは思い至ってはおられなかったのではないでしょうか。


「古代日本語の船舶の名称における異文化の要素について」―博多を中心に― 

黄當時(仏教大学文学部教授)論文の衝撃

201131日仏教大学文学部論文(仏教大学『文学部論集』)


黄教授は、通説はもとより、先行する異説を唱える茂在寅男氏や井上政行氏、寺川真知夫氏の論文他『万葉集』に関する寺川真知夫氏の論文等を詳細に検討され(これについては学術論文であることを考慮し引用が不正確にならないように後段に全文をPDFファイルとして掲載しています)ています。

当然にも全文は精緻な論証の長文となるため、以下、古川の責任で略記します。


黄 教授は、

古代において、タ(田、多、手などと表記され、tauと発音された)舟、カ(小、乎などと表記され、kauと発音された)舟が存在した。

さらに、「手舟」、「手乃舟」と表記された舟についても、「手」のみで、本来意味は通じていたのだが、理解しやすくするために「手」、「手乃」だけでわかる舟、船を、あえて、舟、船の意味を補足し重複して表現されたとされています。

ここで、問題になるのは「手」と「手乃」の意味です。

井上夢間(政行)論文を元に、



62-3


と、され(同論文3p)、さらに、



63-4


と、されました(同論文7p)。

我流にさらに分りやすく言えば、カウの大型のものがカウヌイ=カヌーなのです(双胴はルア)。

現在の日本語では修飾語が前置されていますが、古代においては、後置修飾語が存在しており(そのような言語を話す人々が列島に来ており=住んでおり)、そのなごりが『万葉集』などに残されていたとされているのです。


以下、4.无間勝間之小舟、5.手という舟/船、6.田という舟/船、6.多という舟/船 など4.は茂在氏も取り上げた、勝間(志賀島の北西岸)カタマラン(双胴船)など、詳細な論証をされています。

詳しくは、論文そのものを読まれるとして、地名についてはほとんど触れられてはいません。

しかし、二〇一二年一月に開催された九州古代史の会の例会においては、このテーマと漢倭奴国王印の読み方などについても講演されています。そこでは五島の田ノ浦など、地名についても触れておられるのです。

茂在氏も鹿児島の鹿屋(カヌー)や志賀島の勝間(カタマラン)などを例示されているように、古代の舟、船が寄航していた港、また、その舟、船が造られた場所、さらには、古代の海人族(ポリネシア系、江南系、タミール系・・・)が居住し、大きな船で通過していた場所までが推定できる可能性が出てきたのです。

特に、田浦、田野浦、田の浦、田ノ浦、田之浦などと表記される地名が、大きな田んぼが広がる港などではなく、その時代において非常に印象的な外洋船の通過し、停泊し、その乗員たちが、上陸し、居留し、後には住み着くことになった土地ではなかったかという提案をされたのです。

さて、ここからはフィールド・ワークを中心に活動する地名研究会の領域になります もちろん内部には、文献史学、考古学、神社考古学、地質学、言語学、中国語、韓国語にも精通したメンバーが多数お

られますが、異説を排除し文献史学に凝り固まった偏狭な視野ではなく、垣根を越えた研究を行なうのが当会のモットーです。

この鮮烈なメッセジを受け取った途端、まさに「・・・夢は枯野をかけ廻る・・・」様な状態になり、この地名にも多くのバリエーションがあることに気付きました。

直ちに多くの候補地が頭に浮かんできます。

門司の田ノ浦、平戸の田の浦、芦北の田浦、五島列島久賀島の田ノ浦・・・、さらに、何よりも、平戸の幸ノ浦と佐賀関の幸の浦でした。

そして、茂在寅男教授と遭遇した伊万里湾鷹島の殿ノ浦、平戸の的山大島の神ノ浦と殿ノ浦…が。



062 河野さんからのお問い合わせにお答えして (後編) に続きます