062 河野さんからのお問い合わせにお答えして (後編) | ひぼろぎ逍遥

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062 河野さんからのお問い合わせにお答えして(前編) の続きになります


姓名分布から河野姓を解析する


さて、いよいよ「河野」姓です。当然ながら河野水軍が頭に浮かびます。

しかし、海賊、水軍の河野に大河、黄河の川のイメージは直ぐには繋がりません。黒潮は確かに太平洋を流れ続ける大河かも知れませんが、その意味で採られたものとも思えません。

恐らく、河野の「河」に川の意味はないはずです(中国における川の表記=呼称は南が「江」、北は「河」、半島になると再び「江」になる)。

 ただ、河野姓については、叶姉妹で有名になった叶姓、柔道の嘉納治五郎の嘉納(加納)姓などが関係ありそうなのです。


叶姓 全国560件中  1位鹿児島県(奄美大島)92件 2位大阪府 56件 3位東京都、大阪府 33

加納姓全国8182件中 1位岐阜県 1260件 2位愛知県 1250件 3位北海道 447

嘉納姓全国217件中 1位兵庫県  (姫路市) 41件 2位沖縄県 38件 3位大阪府 29


河野姓全国38743件中 1位大分県 4058件 2位宮崎県 3759件 3位大阪府 2303

川野姓全国 8448件中 1位大分県   1474件 2位宮崎県 795件  3位福岡県 543

 叶姓は鹿児島県、それも圧倒的に奄美大島に、加納姓(表記が変わりますが)は愛知県、岐阜県に集中しています。

奄美のそれは、そのままカヌー(丸木舟)の製造者の末裔と考えられそうですし、岐阜県、愛知県のそれは「木曽のソマ人」(長良、木曽、揖斐…)=船材の切出し船の製造者の子孫と考えれば分りやすいですね。

姓名分布については「姓名分布&ランキング」というサイトを見てください。その県別分布を見れば、もっと、鮮明にイメージが湧いてくると思います。

カヌーが入港、寄港する港、また、その船が造られる港が、叶、加納…とされ、それに関係する人の名に転じたとすれば、この姓名の分布はかなり面白いのではないでしょうか?

このサイトでは、県別分布が検索できますので、ある程度、海岸部か川沿いかの判別は付くと思います(ご自分で探ってみて下さい)。

 カヌーの製造者が叶、加納…などという名で呼ばれていたのは恐らく間違いないでしょう。

 そこから転じて、河野氏が操船する人、海上戦を担った軍事集団になったのではないかと考えるのです。

 河野水軍がいざとなった時の大分県、宮崎県の辺境の部島嶼部に避退地を元々持っていた可能性は十分にありますが、戦国期が終わり、水軍が解体された後に分散展開し帰農ならぬ帰漁したと見るのが普通かも知れません。

ここで、宮崎県の加納姓についても面白い事に気づき「田ノ浦」でも触れていましたので、その部分だけを切り出しておきます。


  1. 加納(宮崎市加納町)

午後からは前述の甲斐さんに同行してもらい、今般、宮崎市に合併された旧田野町に向かいました。

まずは、宮崎市の中心部に流れる大淀川に河口部で合流する古城川、八重川の上流部の加納地区でした。

ただ、ここは既に都市化が著しく、もはや、カウヌイの痕跡を拾うことはできません。

近年まで台地の上に大きな森が広がっていたそうですが、今では、戸建ての住宅が立ち並ぶ巨大な住宅団地になっています。

ただ、面白いことに、この大きな台地には菰迫とか宮ケ迫といった地名が拾え、台地の上の土地には連絡しない坂が川から這い上がっています。

これらは木を切り出すことだけを考えて造られた搬出路だったのではないでしょうか?

どうやら、加納は三本の河川を持つかなり広い流域を持つ土地だったようです。

この程度のことしか分からないため、現地の加納神社の調査は甲斐さんに任せ、田野町を貫流する清武川に面した船引地区に向かいした。

  1. 船引(旧清武町)

ここは加納に隣接した土地です。

さらに面白いことに、地区の中心地にある船引神社の参道が、清武川の旧汀線であっ

たと思われる県道13号(高岡郡司分)線に向かって幅三メートルほどの直線の道路が伸びていました。



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この一帯には他にも数本の直線道路が川に向かって延びているのです。

恐らく、かなり古い時代からこの神社の後背地から多くの大木が切出され、半加工の状態で清武川に運び出されていたのではないでしょうか。

直ぐに、天磐樟船(アマノイワクスブネ)の故事を思い出しますが、神社の境内というよりも、社殿の背後には樹齢九〇〇年と推定される大楠が鎮座していました。

恐らく、大半を切り倒し、最期に一本だけが残されたのではないでしょうか?62-7

あたかも、祭神である応神、神功皇后、中哀天皇よりも、この大楠こそが神体かのようでした。

もはや疑いようはありません。宮崎市の加納、船引、田野の一帯は古代の一大造船地帯だったのです。

できあがった船は大淀川水系から日向灘へと引き出され、黒潮の分流に乗せられ、関門を抜け、玄海灘へ、そして、瀬戸内海へと運ばれたのです。


これで、河野姓が何かは分かったなどとは到底考えられませんが、何の情報もないなかで多少とも推定する方法は僅かな手掛かりをもとに想像する以外はありません。

 叶姓、加納姓を考えるとき、奄美に集中する叶姓は好字令以前に成立しているもっとも古い流れであるように思います。

 このポリネシアンとも思える、叶姓(叶姉妹の姉=実際には姉妹ではないが)が造船技術を乞われて北上し、最終的に木曽川、長良川、揖斐川流域で木を切り出し、船や城を造る人々になった叶姓の分家筋が加納姓を反映しているのかも知れません。

 詳しく見れば、叶姓、加納姓、嘉納姓、河野姓に相互に地域的な重複が認められない理由はこのような本家、分家の問題かも知れません。

 以前から、越智水軍は呉越同舟の越(オチ、エツ)の民の末裔ではないかと考えてきました。

浙江省、福建省…を中心とする越人を中国の海人族とすることについての異論は聴きませんので、その流れを引いたもののなかから越智水軍が成立したと考えられそうです。

もちろん、河野も越智の一派ではあるのですが、河野の意味は以前から分かりませんでした。

しかし、船を造る人と船を操る人が武装通商民になっただろうことは、バイキングの例を持ち出すまでもなく自然な流れと考えられそうです。


物部氏としての河野氏


それでは、もう一つの問題に踏み込みましょう。河野物部氏説です。

九州王朝論者、特に久留米周辺に居を置くものにとって、“河野氏が物部の一派、それも、かなり重要な氏族であるという考えは非常に理解しやすいことです。

まず、福岡県は全国4位の河野姓の集積地(2229件)であり、福岡県内の分布が、有明海沿岸部の大牟田市、久留米市と洞海湾、遠賀川河口の北九州市周辺という安曇族、宗像族とは多少異なる分布を示しています。

特に、一集落の50戸近い全てが河野姓というどう見ても、有明海側の中心地と思える集落が大牟田市に隣接するみやま市(旧高田町)に存在し、私達が最重要と考えている高格式の高良玉垂宮が鎮座し、宮司が市議会に送り込まれてまでいるからです。

同宮司によると、“数百年前に伊予から入って来ている”との話ではあるのですが、私たちの目からは、どう見ても、とてもそのような浅い話ではなく、故地だったからこそ入って来ているはずであり、千数百年は遡るものではないかと考えています。

それには色々な状況証拠があるのですが、ここでは触れません。

 結論だけを言えば、大和朝廷に先行した九州王朝の海軍とも言うべきもので、古代において重要だった、日本海航路、瀬戸内海航路、豊後水道、有明海の要衝に今もその分布を留めていることからも推察できるのです。

 このことは、越智氏、河野氏、村上氏は同族と言われており、彼らが物部の一派であったことは、越智氏の祖とも言うべき越智直が白村江の敗戦で捕虜になっていることからも推定できるようです。

では、「瀬戸内海の水軍の一派が本当に九州の有明海沿岸まで入っているのか?」と疑問を持たれる向きがあると思われるので、非常に分かりやすい例として「柳川蒲池物語」というサイトから一部分をご紹介しておきます。



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蒲池物語(かまちものがたり)
筑後国三潴郡蒲池村(福岡県柳川市東蒲池と西蒲池)は戦国時代に筑後を統轄した筑後十五城筆頭大名である蒲池氏発祥の地であり、蒲池(かまち)姓の由来の地とされている。本城を蒲池城から柳川城を建て移した16世紀には下筑後20万石の勢力を持つようになり、秀吉や徳川の天下統一で藩主立花宗茂や田中吉政に受け継がれるまでの約400年余の乱世を生きぬいた蒲池一族の物語である。下蒲池・柳川城主蒲池鎮並の娘、徳姫の子孫が、江戸期に著した蒲池豊庵の『蒲池物語』を探ってみました。

貞観11年(869)に新羅の海賊が、博多湾に侵入し豊前の国の年貢を奪つている。





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博多湾


    【承平・天慶の乱】(じょうへい・てんぎょうのらん)
承平5年(935)平安中期の関東では桓武(かんむ)平氏の一族平将門が反乱を起こし関東8カ国と伊豆を平定して自ら新皇と称し、下総の本拠に王城を構えてここに独立の政府を立てた。
西国でも伊予国の前伊予掾(じょう)藤原純友が瀬戸内海で海賊の討伐を朝廷より命じられるも、海賊の集団の棟梁となり兵器庫を襲撃して兵器を奪ったり運搬船の略奪を行ない朝廷に恐怖を与えていた。

    【蒲池城の築城】(蒲池氏の起源)
天慶2年(939)蒲池城は平安時代の大宰少弐筑前守藤原長範の子供で藤原純友(すみとも)の弟藤原純乗が築城したとされている。
当時の博多湾や大宰府は、隣国と接する軍事的拠点であると同時に、大陸の唐との貿易をおこなう私商船が来て貿易・文化交流をおこなっていた。大宰府から瀬戸内海を通って京の貴族に唐渡りの品々を売り利益を得ていた海民がいた。藤原兄弟の父の良範は大宰小弐の役人で壮年で死んでいるが、兄弟は大宰府に滞在して唐渡りの品々の買い付けに係わったり、それを輸送していた海民との繋がりがあった役人と思われる。兄の純友は伊予掾(いよの じょう・令制で国司の第三等官)として伊予国(愛媛県)に赴任して瀬戸内海の海賊を鎮圧する側にあった。しかし朝廷に不満を持ち任期を終えても京に戻らず船1000艘以上を率いる大集団の武装集団をつくり瀬戸内海の海賊の棟梁となって周辺の海域を荒らしていた。弟藤原純乗は有明海沿岸の、潮の干満が激しく周りを潟地で囲まれた天然の要塞、蒲池村の蒲池城を本拠地として、兄と共通の行動を取る水軍の集団豪族であったであろう。 
天慶3年(940)朝廷は乱の鎮圧に手をやき藤原純友を従五位下の位を与え時間稼ぎをする。東国では朝廷の追討軍平貞盛と下野の豪族藤原秀郷に急襲され戦死し「平将門の乱」は終結した。朝廷は次に西国の藤原純友の征伐にかかる。
藤原純友は日振島(愛媛県宇和島市)を本拠に自らの武装集団を構えていた。海賊を従え瀬戸内海に航行する官船や商船から調庸(ちょうよう)物を略奪、讃岐の国府や大宰府も攻撃していた。朝廷は追討軍を差し向け鎮圧にかかり藤原純友の軍勢は次第に追い詰められていった。
天慶4年(941)の2月藤原国春に破れ九州大宰府に敗走。同年5月、大宰府政庁に不満を抱く後・日向の勢力や弟の純乗を率いて、藤原純友は博多湾に上陸し、大宰府を急襲した。そして府内の財物を奪い建物を炎上させ占領に成功したが朝廷の追討軍、大蔵春実(のちの原田氏の祖)・予国警固使橘遠保らに壊滅に追い込れ捕らえられ、獄中で没した。一方、蒲池城に戻った純友の弟の藤原純乗の軍勢は蒲池城で橘公頼と息子の橘敏通に迎え撃れ「藤原純友の乱」は終結した。
朝廷は「藤原純友」の乱の功績により橘敏通に三潴郡蒲池を領地を与え、敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池村の領主となった説があるが柳川地方では藤原純友の末裔が領主を引き継いだ説が伝承されている。蒲池氏初祖誕生まで244年の歳月の間の古文書の記録は残されておらず、藤原純友の末裔が盛り返し蒲池に再び住みついた可能性も残されている。彼杵郡(長崎)の大村氏や島原の有馬氏も藤原純友の末裔だといわれており。北部九州の沿岸や瀬戸内海で純友の末裔が海民として活躍していたであろう。江戸期に蒲池豊庵の書いた蒲池物語には、「筑後夜明庄三潴郡蒲池之邑城の濫觴を尋ねるに、往昔天慶の初、伊予付掾純友が一族の築きたる城也と云伝ふ。その後、邑長某(むらちょうなにがし)と言ふ者、此古城に住して近郷を従へ人を懐けて次第に家富み勢あり」とあり、藤原純友一族の後の一族の名は書かれていない。





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前述の河野姓が集中する某集落が存在するのも、大牟田の海士族の拠点とも言うべき手鎌と柳川の丁度中間地点辺りにあるのです。

しかも、その直ぐ東二キロほどのところには、国宝大神社展でも一般に公開された七枝刀(石上物部神社所蔵)を携えた百済からの使者…の人形を残した「こうやの宮」があるのです。

石上物部神社こそ畿内における物部氏の最大拠点であったことは言わずもがなであり、その下流域の古代のウォーター・フロントの河野集落が物部氏の影響下になかったはずはないのです。

では、安芸太田という辺境に分け入った河野氏とは本当に物部氏とも重なり合う越智の海人族だったのでしょうか?

それは、現地調査を待たなければなんとも言えませんが、いい加減な検討を付ければ、安芸太田の太田は天神族=大田田根子命(活玉依姫=ハエタマヨリヒメ)意富多々泥古命の太田と考えてしまいそうです。


活玉依姫

崇神天皇 の時、大物主神の祟りで疫病が流行し、政情不安が引き起こされた。それを治めるため、天皇の夢のお告げに従って大田田根子(意富多々泥古)が探し出された。大田田根子は、大物主神と活玉依毘売の四世の孫であった(『日本書紀』では子)。

『古事記』によると、大物主神は陶津耳命の娘・活玉依毘売と結婚して、櫛御方命 をもうけられた。この櫛御方命の子が飯肩巣見命 。その子が建甕槌命。その子が意富多多泥古(大田田根子)である。

活玉依毘売という美しい娘の前に、一人の気高い男が現れ、愛し合って、娘は身ごもった。娘の父母は怪しんで、娘に「苧環に巻いた麻糸に針を通し、男の着物の裾に刺しなさい」と言った。娘は言われた通りにし、翌朝みると、麻糸は戸の鍵穴から抜け通って、苧環に残っている糸は、わずか三輪だけだった。麻糸をたどって行くと、三輪山の神の社に続いていた。           (HP「玄松子」より)


後世、物部の隠れ里に逃げ込んだ追われた河野水軍の末裔こそ安芸太田の河野氏ではないかとまでは言っても良さそうです。オオオット……、即断は禁物、全ては現地の訪問、そして調査から…。

先入観や誤った定説、通説こそが危険なのです。



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