なぜ誘惑を受けるのか⑥‐3
~私たちは変えられる3~
ここでも同じことが示されている。 神はイスラエル人の忠実さを試し、その隠れ潜む罪を引き出すために誘惑に遭うのを許されたのである。
イスラエルの民は、飢えて初めて自分たちがどんなに反抗的だったかを悟った。
誘惑は不純なものを表面に浮かび上がらせる。
そこで初めて神は不純物を吸い上げて取り去る働きを開始される。
~つづく
(マナ7月号より抜粋)
なぜ誘惑を受けるのか⑥‐2
~私たちは変えられる2~
誘惑は神の拡大鏡である。私たちの内にまだ、なさねばならぬ神の働きがどのくらい残っているかを見せてくれる。
イスラエルの民が荒野をさまよっていたとき、神は彼らの飢え乾きを見ておられた。3日も水がなかったこともあった。彼らは遅々として進まぬ旅に絶望した。
モーセが山で神と長い会見をしているのに待ちくたびれていた。
なぜ神は期待どおりにしてくださらなかったのだろう。
神がこれらすべてのことをなされたのは、
「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、
あなたの心のうちにあるものを知るためであった」
(申命記8:2)
~つづく
(マナ7月号より抜粋)
なぜ誘惑を受けるのか⑥‐1
~私たちは変えられる~
神が私たちの選択を容易にしてくださらないもう一つの理由は、誘惑が人格形成のための神のカリキュラムだからである。
罪深い習癖は、首にかけられた石うすであり、人生の汚点である。
しかし、それは事実の片面にすぎない。
誘惑、苦闘、それに罪さえも、私たちが霊的成長というはしごを上るうえで神が用いてくださる。
罪との戦いを自分に不都合なものとだけ見ていたら
それを通して神が教えようとなさっている多くのことを見逃してしまう。
神は単に罪に対する勝利よりも、はるかにすばらしいことをあなたに行おうとしておられる。
その罪を除いた後に、肯定的な資質という実り多い人生を与えてくださる。
~つづく
(マナ7月号より抜粋)