与謝野経財相「自粛は不景気運動」と発言して早い日常への復帰を促している。

確かに自粛の垂れ流しということは問題であるがそれを政府の要人が発言するのはいかがなものか。

いかにも与謝野氏らしい経済にしか興味が無い人の発言だ、

そもそも自粛というのは被災者に対する気持ちであり個人の心の問題である。

それを経済復興の障害になりうるからといって内閣の一員である人が一元的に立ち入って良いものなのか。

東日本大震災と未曾有の危機に襲われていながらも他人事のように相変わらず株が上がった下がったと一喜一憂している向きに辟易とするのは私だけじゃないはずだ。

経済は人間の生活の根幹部分を構成する大事なツールであることは疑いない事であるが人間にはそれより大切にしなければならないことが山ほどあることを忘れてはならない。

東日本大震災の報道はTVカメラを通じて私たちに提供し続けている。

そのおかげで居ながらにしてリアルタイムでその惨状知る事が出来る。

ありがたい事と思いつつ以前から気になっている事がある。

TVカメラに映し出されている事が真実であろうか?ということ。

というのは、画面に出て来るのはどこのチャンネルも惨状ばかりである。

いち早く、しかも象徴的な事象がスクープとして欲しいのはマスコミに関わってる以上のどから手がでるほど欲しいのは当たり前のことでもあるが、象徴的な事象が繰り返し報道されることによってその事象が拡大解釈されてしまうという恐れがあるということである。

例えば、岩手、宮城、福島の3県がまるごと壊滅的な打撃を被っているかの如く錯覚してしまっていることだ。
確かに各県の太平洋側では大きなダメージを被っているが主要都市の盛岡、仙台(若林区を除いて)、福島、郡山は比較的元気だ。

以前、地方のTV局が取材しているデパートのお歳暮コーナーの現場に居合わせたことがあったが、お客がまばらでとても活況とはほど遠い状況であったが、わざわざ2、3人が商品の品定めをしているところをカメラに収め、後でニュースで確認したら初日からお歳暮の品定めする人が押し寄せというコメントが添えられていてあきれてしまったことを憶えている。

このようにデパート側への配慮もあろうが、やらせでは無い以上、TV画面は事実であるが必ずしも真実ではないということを肝に銘じなければならないのではと思う。

先の例でも東北3県のまだまだ元気がある都市の産業を振興し、商品を買うことから支援してみてはどうだろうか。
時間が経過するにつれ、被災地の状況が次第に明らかになりその凄まじさに驚愕する。

また一方で、こんな激甚災害にもかかわらず避難されている人々の誠実さ、自分が大変なのに他人を思いやってる事など、別の意味で世界を驚愕させている。

これには今度は自分自身が驚いた。他国ではこんなときに我れ先と物資を奪い合う物なのか。


日本にはいにしえより「恥の文化」というものがある。

お隣の国、韓国でよく死亡した人の両親の姿を目にするが、私たち日本人からすればその狼狽の様子が尋常じゃない。
泣き叫ぶ、跪く、床をたたくなど様々に。

肉親を失った悲しみであれば当たり前の事とも思えるのだが、一方でそんな状況下でも日本人は結構冷静にマスコミに対応している。これは決して日本人が冷淡な訳でもなくて、推察するに多分美意識の違いだと思うのだ。

感情を人前で露にしない、感情を理性でコントロールする、また、できるのだと。

おそらくは人のいないところで大泣きしているに決まってる。

これが逆に日本人固有の「本音と建前」という国際社会から批判を受ける弊害となるのであるが…。
とはいえ、TV画面を通じて被災者の言葉を聞くにつれその言葉に品格を感じるのだ。

「決して天を恨まない」
「食べ物を支援してくださって大変うれしい」
「全国の方々に応援してもらって大変ありがたい」

こんなに辛い状況下でも決して恨むことなく、他に感謝し、他を思いやる心を忘れない、何よりも人としての誇りを物欲より優先させる慎ましさに品格を感じるのだ。

以前、TVタレントが私生活のゴージャスぶりをこれ見よがしに紹介している番組を観たが、あれこそ、まるで品性を感じない、逆に下品さが際立つ。

人間の物欲連鎖の成りの果てという感じに受けるのだ。

有名人による多額の募金、炊き出しなど目を見張る活躍ぶりが紙面を飾る中で前述のいわゆるセレブを気取ってる方々に未だにその動きが無いことは少々残念である。