「風をはらむ」とか「可能性をはらむ」とか「矛盾をはらむ」とかいうけど、論説文を読んでてこの言葉が出てきて(論説文だから比喩であることがほとんど。小説でも具体的な意味でこの言葉を使うことなくなったよね)、「はらむ」のもとの意味知ってる?というと、知らない子が意外と多い。「孕む」の字を見せ、「はら」(腹)(おなか)を動詞にしたもんだから・・とヒントを与えてもなかなか出てこない。

あと、「処女作」とか「処女地」とか「処女航海」とかの「処女」も若干説明が恥ずかしいのだけど、これは「ああ、初めての、という意味でしょ」って知ってる子が多い。英語でもmaiden voyageか。そもそも英語表現を翻訳した表現か? でもこれって「処女」にある種の固陋なイメージをおっかぶせた比喩ですよね。「童貞作」とか「童貞地」とか「童貞航海」とかは言わないもの。

しかし女性の「処女」に対する男性の「童貞」という対が存在するのでないことは、カトリックの学校に通ってた友人に遥か昔に教えてもらいました。「童貞マリア」という言い方をするそうですね。

「処女」ということばが共同体(あるいはその文化)での中でのある階層を指し、だから因習的に聞こえるのに対して、「童貞」というと男女問わず道徳的/倫理的な文脈がありますね。「童の」(幼き)「貞潔」ですもんね。「童貞マリア」というと本人が頑張って守った感じがする、「処女マリア」というとたまたま処女でいたマリアに神様が目をつけた感じがする。(とか言うと言い過ぎか?)

「処女峰」とかさ、「まだ誰も登ったことのない」「(最初の誰か=男に)征服されるべき」「美しき高み」といったニュアンスが嫌なのよ・・。「おとめ」とか「乙女」とかはそうでもないんだけど。

以前、漢字覚える身体性みたいな話を書いたことがあったけど、他の課目にもあるかな?と考えて・・。
先に例あげた伝統芸能だのダンスだの音楽だのあらゆるスポーツ競技だのに身体性が関わりあるのは勿論のこととして(だからこそヴァイオリンとかバレエとかは頭で考え始めるより前に幼いうちから身に叩き込んでおくのが良いとされるんでしょね。そんなふうに叩きこまれる幼い子どもは一面かわいそうでもあるけれど・・)、算数とか数学とかは身体性あまり関係ないようだけど、やっぱりあるのかなとも思います。
数字に色があったり音色があったりなどの共感覚のおかげで一瞬のうちに計算できる人とかいるらしい。そこまでいかなくても、わたしが羨ましく思うのは、4次元以上の世界を頭でなく(論理や言葉でなく)空間感覚としてイメージできる人。わたしは3次元空間のイメージですら満足にできないもの。
あと算数でいえば算盤(そろばん)か。小さい頃にそろばん習った子は、頭に架空のそろばん置いて弾(はじ)いてるので(そろばんとか指とかを具体的に頭の中で想像してるわけではなくむしろ意識せずに抽象的にそろばん置いてる)、暗算がやたら早くて正確です。実は実は実はわたし自身そうなので(正確さはだいぶ失われてるが)、むしろそろばん習ったことない子がどういうふうに暗算してるのか想像つかないぐらいです。

古文の「やをら」の意味(「そっと」)を教えていて、いまでも「ゆっくり」とか「おもむろに」の意味で使うことがよくあるよ、という話をしていると、何かで調べてると「やおら」を正反対の「だしぬけに」「いきなり」の意味で使う人がよくあるという話を聞いてびっくり。コレと混同かな?と思って調べてみると案の定で、「おっとりがたな(押っ取り刀)」を本来の意味と正反対の「ゆっくりと」「おっとりと」の意味で使う人が多いとのことです。
「憮然」とか「愕然」とかもよく言われるけど、音(「ブ」「ガク」)の印象から「ムスっとしている(怒っている)様子」「がっくりきている様子」の意味で使う人を見かけるけど、正しくは憮然が「がっかり」愕然が「びっくり」ですね。

そういえば「無き」とか「如き」とか形容詞の(あるいは形容詞型に活用する助動詞の)連体形語尾の「き」自体が今の子にはピンと来ないみたいですね。「古き都」とか「美しき人」とか、その音便形が「古い」「美しい」で、現代語の形容詞の語尾「い」になってるんだよ、って説明しててもきょとんとしてる子が大半だもの(わかってて澄ましてんのか?)。
「ふるさと」の歌の二番の「山はあおきふるさと 水は清きふるさと」とか「野菊の如き君なりき」とか、かつては子どもの頃からそういう古めかしい言い方に慣れて、古文もそれなりに読めるようになるんだけどね。
「うさぎ追いし かの山」の話は以前書いたっけ。わたしに限っていえば「美味しい」と勘違いしてたことは一度もなく、「追った」の古めかしい言い方が「追いし」なんだと、どこかで学んで知ってました。誰に教えられたこともないので、ほかにもこの「し」を見て(あるいは聞いて)知ってたんだろう。それが過去の助動詞「き」の連体形とか習うのは、高校になってからだけど。
「追いし」が「追った」だとわかる以前に、「過去の助動詞『き』の連体形・・云々」の勉強が先に来てたら(暗記を強要されたら)、絶対覚えてなかったと思う。というか、わたしあの活用表というやつ暗記したことないし。
日本語ならそれでなんとなくやってけるけど、外国語学習でもこの種の努力を怠るため、どんな外国語も上達しないのである・・。
(思わぬところまで来てしまった・・)

先に「無きに如かざる」を「無い方がマシ」だと言いましたが、「マシ」ってよくニュアンスを伝える言葉ですよね。

というのは、ちょうどイタリア語で比較級やってたんですが、先生が次のような例文言いました。イタ語原文は省略しますが…
「あんたとデートするぐらいなら、家にいた方がマシ」。
クラスの半分ニュアンスすぐわかって(わっ、キッつ〜)と笑い。あとの半分はキョトン。文法的に正しく訳せば
「君と外出することは家にいることに及ばない」
「君と外出するより家にいた方がいい」
いっやー、それやとキッツさ伝わらんでしょ。(笑)
漢文の授業でも「如かず」はbetter 、「如くはなし」はbest だと教えるのですが、それだとニュアンス伝わらない文はいっぱいあります。

ちょっと古めかしい言い方になると、わからない高校生がたくさんいる。

これは漢文を習ってないからというより、身の回りからそういう表現が消えていっているからなんだろうな。もちろん読書量(と質)がない(「足りない」ではなく「無い」)というのもあろう。

「〜の如し(ごとし)」とか「〜に如かず(しかず)」とか「〜に如くはなし(しくはなし)」とか、意味どころか読めもしないんだもの。「如く(しく)」の意味から入って漢文式で教えるより、そのまんまで意味覚えてしまって、と教えます。

かと思えば、「不可欠」は漢文式に読むと「欠くべからざる」と読んで「欠くことのできない」の意味なんだよという説明をして、すんなり理解できる小学生もいる。

あ、年齢じゃないですね。75年前(3/4半世紀前か)ぐらいの小学生は、「欠く可からざる」も「如くは莫し」もちゃんと読んで意味もスッと頭に入ってただろうから。

ところで、今回のエントリーのタイトル「無きに如かざる」の意味、みなさん、頭にスッと入ります?

わたしが説明するときは「無い方がマシ」です。(辞書的に言えば「無いことに及ばない」「無いにこしたことはない」なんですが、なんだかかえってわかりにくいでしょ?)

 

 

 

 

この時期になると、間近に迫った受験のために慌てて駆けこんでくる人、その次の年の(あるいは2年後3年後の)受験に向けて態勢を整えておこうとする人と、両者の問合せが舞いこんで来る。わたしが正直言って苦手なのが「(お宅の塾では)〇〇(志望校)対策やってますか?」。
もう、その問合せの文言だけで説教したくなる(笑)。「お母さん、勉強は『対策』じゃないんですよ」(うちの塾で(わたしが)やってることは学力をつけることであって「対策」ではないんですよ)。
そりゃ、志望校の(あるいはセンターの)過去問一緒に解きながら、ここはこういう問題の出し方するからこういうときはこうすりゃいい、程度の「対策」は当然しますよ。また、本人の学力の傾向を見て志望校の調整のアドバイスをしたりもします。
だけど、初めっから〇〇(志望校)対策のためにはこういう能力が必要でそのためにこういう勉強をしておく(逆にいえば効率良く準備をするためにこういう勉強は必要ない)というような指導はできるだけしたくない。できれば低学年のうちから始めて、バランスの良い実力を身につけ、受験学年になって初めて志望校(それも本人の力に応じた)受験に向けた勉強をしていく・・というのがわたしのやりたいところなのです。ちゃんと実力ついてると志望校選びにも余裕ができるでしょ。
たとえば高校生見てて、世界史取ってる子は日本史の知識まるでない、日本史取ってる子は世界史の知識まるでない、それを当たり前のことだと思ってて恥じない。それ、ものすごく変だと思う。世の中まちがってますね。

「真逆」(まぎゃく)も嫌いです。

いまや有名な若手哲学者が難しい文章のなかで使ったりするので抗えないけど、そんな言葉ないでしょう?

それを言うなら「正反対」かな。
「なので」は、私もしゃべり言葉のなかではよく使います。文章と文章、論理をつないでいくときに、「だから」よりも強調した感じになってわかりやすい。

だからといって、書き言葉のなかで文頭に「なので」を使われるとめちゃくちゃ違和感あります。

作文だとかならず直します。

いまどきの採点者はこれを減点するのかな?しないかな?

昨日は11月11日。1111と並ぶので「独身の日」とか「ポッキーの日」とかいろいろあるみたいです。

その昨日、令和1年11月11日11時11分に大阪梅田を発車した神戸三宮行普通列車の車両番号が「1111」だったそうで・・。運行した阪急電車によれば「偶然」ということでしたが、んなもん、偶然なわけないでしょう! 狙ってやったにちがいないのですが、事前に発表しなかったのは、発表すると鉄っちゃんが詰めかけて大変なことになったからにちがいない。

よく利用するなじみある路線なので、その「1111」がみごとに並ぶ写真見てて面白かったです。

・・という話を、今日会った人に喋ったところ、3人のうち2人が知ってた。

なんだ、みんなちゃんと見てんのね。(何で知ったのか?わたしはネットニュースでしたが・・)。

あと、やはり学校でうるさく指導される字画の「とめ、はね、はらい」などの区別、「つきぬける/つきぬけない」「くっつける/離す」などの区別。これについては、「文字」って結局は別の文字と弁別することによって存在するので、「弁別可能」ならば全てOKにしてあげたらいいのにと思います。
たとえば「土」と「士」と「工」、「刀」と「力」、「失」と「矢」、「己」と「已」と「巳」、「治」と「冶」などは、小さな違いであっても弁別できなくなるので、きっちり区別して書く。だけど、「しんにょう」の点が一つであろうが二つであろうが、部首になったときの「耳」の五画目をつきぬけようがつきぬけまいが、(いろんな字で)横線が二本であろうが三本であろうが、全体としてその文字がその文字として認識できれば、細かいところなんてどうでもいいのにと思います。
子どものなかには印刷字体をそのまま真似るのでかえって書きにくい書き方を覚えてしまってる子もいますね。「だいのまげ」の三画目(「就」の右側ね)を隣の二画目から横線引っ張ってから書き始めるとか。(沿わせるように書いてると「先生、それ違ってる」と子どもに指摘されたことがあった。あと「なべぶた」の一画目などを点のように書いてるとやはり子どもから「間違い」と言われたことがあったなぁ・・。)
特に、漢字ネイティブでない人が漢字を学ぶとき、そんな細かい区別を(いまの小学校で指導するように)しなきゃダメなんてことにしてたら、そのほうが害が大きいでしょ。ましてや日本の文科省が世界の漢字のスタンダードを決める権威でもあるまいに。パソコン入力が普通になっている(読めればいい)時代になっているんだから、むしろもっと大胆ないろんな書体のデザインが創られてもいいと思います。
中国の簡字体も含めて・・というと混乱が大きくなりそうではあるが・・。「愛」はやっぱり「爱」ではなく「心」が中に入っててほしい(というのはよく言われることですが・・)。