センター試験も終わったこの時期、大学受験生にとっては最後の追い込み。ひたすら過去問対策に取り組む。センターの出来不出来で志望校を変えた子もいるしね。大変・・。

こんな時期にこんなのんびりした話(を)しててええんかって話ですが・・。

ある論説文を一緒に読んでてふと気になったので・・

わたし「デジタルってどういう意味?」

生徒さん「・・どういう意味って・・そんなのが(と机に置いてあるわたしのiPhoneを顎で指しながら)デジタルでしょ?」

(そういう感じで言葉をボンヤリと捉えている子が多い)

わたし「んん・・これもデジタル技術でできてると言えるけど、そもそもデジタルという言葉の元々の意味は?」

生徒さん「元々の意味とかあるんですか?」

(あるわーい!すべての言葉には「元々の意味」も「語源」もあるわーい!)

で、解説。英語でdigitalと表記しdigitという名詞の形容詞形であること。digitという言葉が「数字」をあらわすこと・・などなど。コンピュータがなぜデジタルかというと、コンピュータもすべて数値化して計算してるからでしょ・・などなど。

などということがあり、その日さるフランス映画を見たところ、digital はフランス語では numérique と言うことを知る。やっぱりnuméro(数)から来てるのね。その言葉の意味がわかるから、英語をそのまんま用いるよりいいかも。

そういえば誰かの説にあったなぁ・・外国語の日本語読みをそのまんまカタカナ語にして取り入れることが普通になってから日本語も日本語の読解能力も劣化したと・・。

デジタル、無理矢理日本語化すると「数値化」か?

おお「やをら」が出たね。古文の「やをら」は「そっと」だよと教えたけど、「そっと」という選択肢がなくて戸惑った子はいないだろうな。「ゆかし」は「見たい聞きたい知りたい」だよと口酸っぱく言ったはず。敬語も繰り返し繰り返し教えたはず。大丈夫だろな。大問1(論説文)と大問3(古文)の本文短い!しかも論説文はわりと読みやすい、古文はおなじみ擬古物語で嬉しいことに和歌なし!これは楽勝だと思った人も多いであろう。論説文のテーマである「レジリエンス」という言葉はこの文の筆者も言う通り、最近いろんな分野でよく見かける概念。この言葉じたい教えておけばよかったなぁ・・とか。大問2(小説)は昭和の小説。原民喜という作家と、戦後すぐに書かれた小説ということ自体を押さえておいて解いてほしいものだったが・・(やっぱり出題者の思想的傾向は・・以前書いたエントリー通りかな?)。
曲者は大問4(漢文)、ずっとずっと漢詩が出てないからそろそろ出るはずと言い続けてン年、ようやく出たと思ったら漢詩だけという・・!イラストで内容答えさせる問題は絵をよく見て違うところと対応する詩の箇所を突き合わせればいいだけなんで、かえって簡単なはず。あとも漢詩でよく出る問題のパターンばかりだけど、普通の漢文はよく読めるのに漢詩が苦手だったある優等生の顔を思い浮かべできたかなぁ・・と心配。
週が明けたら会う子会う子に出来を聞いてみよう。でも「簡単だったでしょ?」と下手に言うと、できなかった子を傷つけてしまったりするのだけど・・。

あらかじめ言うときますが、私は、トランプ、安倍、日本会議、橋下、ネオリベラリズム、右翼ポピュリズムなど大嫌い。フランスのゼネスト、香港の民衆のプロテスト、あいちトリエンナーレなどは共感・支持。人が呼ぶところの左派とかリベラルとかにあたると思います。(右派左派という分け方は今どき当たらない、上下があるのみという論者もいてむしろそちらに同意しますが)。政治活動や組合活動に積極的に関わったことはありませんが、思春期から大学その後を通じて左翼傾向の言説の場で成長してきた(知的)生育歴あり。そういうバイアスのかかった者が書いてるものとして、以下は読んでくださいね。
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大学入試の現代文や小論文の問題作ってる先生方も、どうやら私と似たような知的生育歴のある人々多いらしく、そういう人たちの選ぶ文章だから、右翼的な論説文、ましてやただいまネットや本屋の店先を席巻している右翼ポピュリズム的言説が現代文の課題になることはあまりない(小説は別だけど)。(かつては河合隼雄先生などという入試頻出の右翼イデオローグの大物がいたし他にもいたけど今はそれほどでもないかな?右翼の論客にまともな人がいないのか?佐伯啓思先生などは右翼というとちょっと違ってしまうような気もするし)(そういえば朝日新聞の天声人語が入試によく出題されるという事態を指して「左派に偏り過ぎ」と糾弾した右派の論客もいましたっけ?)小論文なども、一見中立的な問いの立て方であったとしても、これに右派っぽく答えてしまうとまずいだろうなというのが多い。
ところが今の日本の高校生たち、放っとくと「なんとなく右傾化」している周囲の空気に染まり、ちゃんとした言論にも触れず世界の情勢も知ることなく考えることなく育ってきて、素朴なポピュリズムを自分の意見だと思いこんでることがよくある。
例えば小論文にそういうこと書いてしまうとまずいというのは、実際にそういう内容書いて落ちましたとか(逆にそういうこと書いたけど受かりましたとか)そういうデータはないけれど(あったら教えてくださいますか?)、そんなこと書くと「馬鹿だ」と思われるだろうなというのがある。右翼ポピュリズムの底には根深い反知性主義があって、馬鹿だから反知性主義に走るのか、反知性主義だから馬鹿になるのか、こういう言い方するからにはお前は自分が賢いとでも思っているのかと言われそうだけど、私自身は置いとくとしても、少なくとも大学は知性の塔だし、大学を牛耳っている先生方も(なんらかのかたちで)知性の権化であるわけだし、やっぱりそんなところに反知性主義を掲げて(自分は馬鹿だけど馬鹿が素朴に本音を言ってどこが悪いねん?みたいな姿勢で)受かろうと思う方が間違っているんじゃないですかね? 大学の知性を改革したいならまず、反知性主義ではなく、知性の上をいく知性で勝負してください。
てなわけで、素朴に日本に生まれただけで日本や日本人を(他国よりも)偉いと思ってたり、外国人の悪口言ったり排斥したり、女性や性的マイノリティを貶めたり、どんなかたちであれ人権を踏みにじるような解決策を示したり(ましてや改憲論者のある政治家が語ったとかいう「基本的人権なんていらない」それより日本国が大事とか)、歴史修正主義者とおんなじようなこと言ったり(従軍慰安婦は売春婦だとか南京虐殺はなかったとか中国韓国台湾その他アジア諸国を日本が統治したのは良いことだったとか・・)、そういうのを小論文に自分の意見として書いたらやっぱりまずいわけですが、その時の指導の仕方としては、「これは右翼ポピュリズムだからダメ」とか「こんなの書くと馬鹿だと思われるからダメ」とか「ちゃんと勉強すればこんなの嘘だとわかるでしょ?!」とか言わず、「こういうこと書くと、あなたの人格を疑われるよ、思いやりのない人だと思われるでしょ?」という作戦でいく。
小論文の授業だけでなく現代文の課題文で、グローバリズムや資本主義の論理や環境問題などを論じた文章を読んだりするとき、抽象的に書いてあるときには世界に日本に具体的に存在するできごとを例に語ってあげて、抽象的な論説文の読みかたを教示することが多いのだけど、そのときに採用する具体例は、やっぱり私のバイアスがかかっているわけですが・・。
いまんとこ保護者の方々から「先生は思想的に偏っている」というクレームは伺ったことないけど、まあうまいこと免れている/逃げているだけかもしれませんが・・。

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしく。

12/31が仕事納め、年明けも元日から3が日お休みなしで、まあいつものペースです。

とはいえ、正月特訓の類はもう随分前からお断りしていますので、個人の生徒さんばっかり。一日一コマという感じで、あとから考えてみればどこか一日にまとめてしまったほうが効率良かったんちゃん?

でもま、合間に映画見にいったり、実家に帰ったり(おんなじ関西で電車+徒歩=30分ぐらいの距離)、のんびりゆったり過ごしました。

正月明けるともう待ったなし。受験スケジュールが容赦なく続きます。

この時期に入ると、これまで学んだことの確認だけですね。自分のつけてきた力を確認し、志望校の入試問題に対してどれだけ食いついていき、ちゃんと合格点を作っていくことができるかを、シミュレーションしていきます。ちょうどスポーツ選手が、これから行う演技を頭のなかでシミュレーションするようなもんね。

頭のなかで自分のできる最高の演技を思い描き、成功を信じるのです。

私も、みなさんが最高のパフォーマンスを見せることを信じています。

 

「霜」を知らなかった高校生は、寒い朝地面を覆う白い氷の粒々に気づいたことがなかったのか?葉っぱに降りた冷たい細かい氷みたいなものに気づいたことがなかったのか?触れたことがなかったのか?・・都会の環境ではあっても今まで生きてきてそういう現象が一度も目に触れなかったということは考えられないのだけど・・。そういう身近な現象に気づくということ、それを、親に「あれ何?」と尋ねてみること、あるいは親が、霜が降りているところを見せて「こういうのを霜というのよ」とか教えてあげることがなかったのか・・。(雪のない風土に育った子どもが絵本やテレビや映画でそれを見て「雪」を学び、いつか雪の降るところへ行ってみたい!とかいったルートもあろう。台湾の人が北海道に旅行に来るようにね)。

普段の暮らしのなかでなにげないことに目を止めること、それを「ことば」でどう言うのかを学ぶこと、ことばを身につけることの基本だと思うのですが・・。

いまの高校生が思わぬことばを知らないことに気づいたのは、「にわかに」の意味を教えるときに「にわか雨ってどんなふうに降る雨?」って尋ねてみると頓珍漢な答えがあまりに多すぎたことに遡るけど、みんな「にわか雨」ということば自体は知ってる。けど、それが正しく使われている場面を体験したことがなかったのか?・・ということは、親が正しく使ってなかった?(ちなみに正解は「にわかに」=「いきなり」降ってくる雨ですが。)

そういえば、こんなこともありました。論説文の中で「為替」というのが出てきて、これは高校生の語彙ではないよなぁ・・とか言うと、「あっ、知ってますよ。FXでしょ?」と言う。つまり、親がやってるわけね? (ただし「為替」の元々の意味をちゃんと言うことはできなかった。)

こういうのもあったな。小学生に慣用句を教えていたとき。「足が早い」を知らなかった。「このおかずは足が早いから冷蔵庫に入れといて早めに食べや〜」とか言わへん? 子ども「・・言わへん」。それをキッチンで聞いてた母親、「そういえばママは言わへんなぁ・・でもおばあちゃんは言うやろ?」子どもはやっぱり記憶にない様子・・。こうして、ことわざ・慣用句も「生活の中で覚えることば」ではなくなり、中学入試に必要な知識として塾でまる覚えさせられるようになっていくのでした・・。

ま、「ことわざ慣用句辞典」みたいなものから覚えるのも楽しいけどね。でもことわざはともかく慣用句は、実際に使われる場面から使いかたじたいを覚えていくほうが良いと思うけど・・。塾で覚えさせられた「意味」は覚えさせられた通りに言えるけど、「じゃ、そのことば使ってみて」とか言うと、これまた頓珍漢な答えが返ってくるケースが多いので。

先日のエントリーの答え。
「そこに立てる者あれば」
*意味*
古文の場合・・「そこに立っている者がいるので」(「そこに立った者がいるので」も可)
現代文の場合・・「そこに(何かを)立てる人が(もし)いたら」
   もひとつは「そこに立つことのできる人が(もし)いたら」(なんだかすごい狭いとことか危険なとことか)
*文法*
古文の場合・・「立てる」はタ行四段活用動詞(自動詞)「立つ」の已然形(もしくは命令形)に完了・存続の助動詞「り」の連体形がくっついたもの。
 また接続助詞「ば」は、上に已然形がくっついているので確定条件となり「〜なので」もしくは「〜したところ」の意味となります。
現代文の場合・・「立てる」は一語でどちらの意味でもタ行下一段活用動詞「立てる」の連体形。・
 ひとつの意味は他動詞(何かを)「立てる」。もうひとつの意味は、五段動詞から作ることのできる可能動詞。「書ける」「動ける」「走れる」の類ね。つまり「立てる」で「立つことができる」の意味。(ちなみにこれは五段動詞からしかできないので自動詞の「立つ」のみ可能。他動詞の「立てる」を「立てれる」としてしまうと、いわゆる「ラ抜き言葉」になって不可。)
 また接続助詞「ば」は、上に仮定形がくっついているので仮定条件となる。「もし〜すれば」の意味ね。
 *
ちなみに、現代文の二つの意味を古文で言うとすれば、それぞれ
「そこに立つる者あらば」
「そこに立たるる者あらば」
になります。

うーん。ア段ウ段エ段の音を使い分けるだけでこんなに意味が違ってくるのですな。
・・なんか、感動しません?(と感じるのはわたしだけ?)

先日のクイズのお答え。文法的違いは書いたので、意味の違いだけ書いておきますね。

「庭に棒が三本 立っている(「立った」でもOK)」

「庭に棒が三本 立ててある(「棒を三本立てた」でもOK)」

それで、もひとつ、クイズ思いつきました。

「そこに立てる者あれば・・」

というフレーズ、古文の中で出てくるのと、現代文の中で出てくるのとでは、意味が違いますよね。

そしてなんとなんと、現代文に出てきた場合、二通りの解釈ができてしまいます!

さあ、三通りの解釈、および、文法的説明をしてみてください。

ちなみに、関西弁で発音すると、古文と現代文とではイントネーションが違ってきます。ただ現代文では二通りのどちらも同じ発音になってしまうかな? 関東語(標準語)で発音するとどうなんだろう?

答えは次回。

よく生徒に出す古文クイズ。

「庭に棒三つ立てり」

「庭に棒三つ立てたり」

意味はどう違うでしょう?

また、文法的に解説してください。

  *

いまの高校生および高卒生、わたしの見るところおよそ半数弱が、文法うんぬん言わないでも意味の違いがちゃんとわかる。(大人の方はもっと多いでしょ?)

ということは、いまは古文の助動詞扱いされてる「たり」「り」をどこかで聞いて知ってんだね。(「来たり、見たり、勝てり」とか?)

教える側としては、ちゃんとそういう正しい語感のある子の方が望ましい。

そのあと、じゃそれを文法的に解説してみて、というとしどろもどろになる子の方が多いけど。(もちろん意味も文法も完璧にできる子もいます。)

で、文法的に解説しますと・・

片方の「立て」は、タ行四段活用動詞「立つ」の已然形(もしくは命令形)で、こちらは自動詞。

他方の「立て」は、タ行下二段活用動詞「立つ」の連用形で、こちら他動詞。

つまり、古語だと自動詞も他動詞も終止形がおんなじ「立つ」になるんです。

「ほほ〜っ!」てなるでしょ?(ならない?) 意味が問題なくわかった大人でも、結構感動する。

でも、実は、この手の動詞よくあります。古語では終止形おんなじで活用が違うだけ。現代語では終止形が違ってきます。(連体形の音変化です。)

「従ふ」なんかもそれね。

自動詞だと四段、他動詞だと下二段に活用します。

現代語だと終止形から違ってて、自動詞は「従う」、他動詞は「従える」(←古語の「従ふ」の連体形「従ふる」からの変化)。

  *

えーと、最初のクイズ、みなさん、違いわかりましたよね?

もひとつついでに。

「庭に棒三つ立ちたり」

この文、最初の二つの文のどちらと意味が同じでしょう?

今日の授業であったこと。
先に言っとくけど、あのね、Nくん、決してあなたを貶める目的でこれを書くのではないのだよ。
と、あらかじめ断っておきます。生徒さんの悪口を言うために書くわけではないのです。Nくんは多分ここは見ていないだろうけど・・。
今日の授業の中で、一緒に読んでた文章のなかに「社会化」とか「社会的意味」とかいう言葉が出てきて、それがキーワードになりそうな勢いだったので、ここで言ってる「社会」ってどういう意味?って訊ねてみた。だってそれがわかってなければ、文脈も文意も取れないもんね。
「社会」ってどういう意味? (そんなもん小学生の語彙で説明できるはずだけど?)。敵は(生徒さんは)「ええと・・」と言い淀み、長考した挙句、ついに答えることができなかった。
ヒントを与える。「社会」? その言葉でまず何を思い浮かべる? ええと、小学校の「社会科」。よし、じゃ、社会科でなにを勉強した? ・・ええと「地理」とか「歴史」とか「政治」「経済」とか「倫理」とか・・(まぁそこまでスムーズではなかったが、とりあえずこれ全部出た)。よし、じゃ、結局「社会科」とは、なにを学習する科目だったわけ? ・・答えられない。
英語で言うと何? そこはスムーズに socialとか society とか、まる覚えさせられる英単語が出てくるわけですよ。
じゃ、その socialとか society とかって、どういう意味なの? というと、やっぱり答えられない。
別のヒントを与える。ええとね、「社会」って言葉はね、人間の社会のことを言うのが普通だけど、たとえば「ニホンザルの社会」とか「ミツバチの社会」とかいう用例もあるでしょ。例えば「ミツバチの社会」とか言う場合、ミツバチの「何」を指して「社会」と言ってます? 敵は(生徒さんは)うーんと必死に考えた結果・・やはり答えられない。
こういうのって、結構深刻な気がします。みんなふつーに「社会」という言葉を使い、その言葉を耳にし、目にしてるでしょ? でもその言葉の芯の意味を、ちゃんと自分なりにわかってますか?
わたしの問い方がいけませんか? それとも、そういう「ことば」の意味をスルーして、何も考えずに試験の課題文を読んできた生徒さんを責めるべきですか? でも、とりあえず、「社会」のことばの意味を(なんとなくであれ自力で)捉えていなければ、その文章にある「社会化」とか「社会的意味」とかいう文脈は追えないと思うのですが・・。
・・いや、これ、「社会」に限らず、あらゆることばについて言えると思うのですが・・。
あらゆる抽象語について、ちゃんと自分なりのイメージを(具体的なイメージを)持っておいてください。
例えば「社会」って何?って小学生に問うた場合、辞書的な意味をきっちり過不足なく答える子なんて稀だと思うんですが、そんなもんできなくて当然なんですけど、小学生は小学生なりに(その精神年齢に応じて)、ちゃんと自分なりのイメージを持っておいてほしいと思います。何度も言いますが、あらゆる抽象語についてです。それをわからんままにわからんもんやとスルーして読み流す癖をつけてしまうと・・それこそろくなことにはなりませんぜ・・(脅すわけではないですが)。