とりあえず新年のご挨拶だけ申し上げておきます。

あけましておめでとうございます。

 

と素直に言えない情勢でありますが・・

ガザも心配だし能登も心配だし原発はもっと心配だし・・

 

パレスチナ人支援のために北陸の被災者支援のために、なんらかの行動している人、活動している人たちを、攻撃したり冷笑したりする風潮があるのを残念に思う。

イスラエルを支持してパレスチナ人に関するあらぬデマを振りまいたりするのは論外だけどね)

 

何かできる人はすればいいと思う。わたしもできる限りのことはします。

 

素人が被災地に行くのは良くない、行かん方がいいみたいな声も大きいけど、行ってみて適切に動いてみれば、必ず役に立つやり方を見つけられます。なんなんだ、いまの政府の、外国の支援も受けないし自分たちは動かないし支援も送らないし動かないのを正当化するやり方は・・

 

とにもかくにも本年もどうぞよろしく。

 

受験生はすぐ受験シーズンですね。

とにもかくにも、これまでがんばって身につけてきたあらゆるスキルや知識を総動員して、所期の目標を達成してください!! Good Luck !

さてさて正解は

大阪環状線「野田」駅でした!!

窓の向こうを走っていく電車の種類と電車が重なってるときのレールの位置関係、ホームに向かってカメラ向けてて電車がこのように見えるということは駅のホームの構造がどうなってるか・・で絞れると思います。

ちなみにライブハウスの名前はMagaYura(マガユラ)。いろんなイベントやってるので大阪にお立ち寄りの際は来てあげてくださいね。

隔週ぐらいの月曜朝に、野田駅ホームから見えるこのビルの屋上でダンス踊ってる人もいます。

 

このブログの趣旨とはまったく関係ないのですが、ここを見てくださっている方々には鉄道マニアもたくさんいらっしゃると思いますので、ちょっとクイズ。

以下の写真は、関西のある駅のプラットホームから見える位置にあるライブハウスの中からその駅に向かって写したものです。さて、これだけでどこの駅だかわかるかな?

・・・しばらく置いといて正解をアップします。

わかった方には・・・さあ何をプレゼントしよう?

 

もう先月になってしまいましたがこの秋の中秋の名月はタイのチェンマイで迎えていました。

コロナ禍の前年にイタリアに行きコロナ禍のおかげで計画してたやっぱりイタリア旅行がふいになり、それ以来の海外旅行。ちょうど更新したてのパスポートの初渡航地がこれもお初となるタイでした。

ヨーロッパへの航空券めちゃ高いしユーロ高も大変そうだし、とりあえず海外旅行リハビリとして関空〜チェンマイの直行便を利用して2泊のみの弾丸旅行。タイは雨季の最後らへんで残念ながら雨のなかの観光となってしまいましたが、十五夜の夜は雲がちの空にお月さんががんばって光ってくれていました。チェンマイはお寺の街。歩けばお寺に遭遇しいちいち仁義切ってきた(わたしなりの作法でお参りしてきた)けど、夜になるといくつかのお寺はライトアップ。タイの寺院をご存知の方には周知でしょうけど、もう金ピカピカの仏閣、仏さんが、キラキラ光ってそれはそれは綺麗でした。

 

 

某所で(別名義のブログで)映画の感想など書いてて「からだ」にまつわる映画を続けて見ているな・・と

いうことで「からだ」ということばの意味などつらつら考えたので、ここに書いときます。

 

「からだ」をフランス語で言うと corps(最後のpsは発音しないので「コール」になる)だけど、英語で corpseと言うと「死体」の意味になっちゃうなぁ・・。身体にあたる英語は body だけど、しかし body も死体(=dead body)の意味になっちゃうこと多くて(英語のドラマとか見てるとつくづく思います)、これはフランス語のcorpsもそうなのかも・・。

ところでフランス語でコール・ド・バレエとかいうときのコールも corps でこれは「団体」「部隊」みたいな意味。英語だとどう言うんだろ?と調べてみると、なんと corps と綴ってフランス語風に最後のpsは発音せず、軍隊の「部隊」などを指すそうです。(あとbodyにも「集団」の意味あり。国語入試の「本文」もbodyだもんね)。

日本語で「からだ」というとぜったい「死体」の意味にはならないんじゃないかと思ってたら、浄瑠璃などで「死体」の意味で使うこともあるらしい。

ほかにこれがぴったりの「むくろ」という言葉があり、元は「躯」と書いて「身体」「体」の意味。ところがいまでは「骸」と書いて死骸の意味のほうで言うことのほうが多いよね。
「なきがら」というと「亡きからだ」がつづまったものなのかな?

ところでいつなんで「アレ」になったんですか?

大騒ぎにならないよう?なってるやん・・その程度の婉曲化で止められるわけないし。

というわけで阪神優勝おめでとう!

甲子園球場まで徒歩+電車で20分圏内にある地で生まれ育ち幼い頃からおばあちゃんがどんどんテレビ叩きながら応援している図を見ていた私が阪神ファンになることを免れることは難しくいろいろ思い出もたくさんあるけど近年は試合をみることも少なく今年は調子いいらしいということだけは知ってたけど優勝も直前になるまで気づかずしかし一報を聞くとやっぱり嬉しいのでありました。あらためておめでとう!!

(ちなみに、関西という土地であえて巨人ファンやってる人たちには敬意を表するけどそういう巨人ファンの癖してこういうときだけ阪神ファンのふりして政治利用しようとする某維新の政治家には軽蔑しかない。都合よくしゃしゃり出て来んとって欲し・・)

 

で、「アレ」ネタですが・・

" Birds do it, bees do it
  Even educated fleas do it
  ... "

てコール・ポーターの歌。(まぁコール・ポーターというひと自体、一筋縄ではいかないんですが・・。)

いつもこの歌い出しを聞いて赤面してしまうのは私だけ?

え?こんなにあからさまに歌っていいの?・・な感じはしないんだろうか、英語ネイティブのみなさん。

日本語に直すとこうですぜ

「鳥たちもアレをやる、

 蜜蜂たちもアレをやる

 蚤サーカスの蚤ですらアレをやる・・

 ...」

オチんとこでちょっとホッとするのだけど。

私自身は学校の先生をしたことがないので(そもそも教員免許を取らなかったので)学校の先生のお仕事は本当に大変だと思う。いろいろ身近に見聞きすることも多いしね。家庭教師や塾・予備校の教師の立場では関われない(関わるべきでない)ような関わりもしないといけないし・・。

・・ということはおいといて

この季節、小論文や志望理由書の類を指導してて困るのは、「学校の先生がこう言ってました」。

私のような外部の指導者に見てもらう前に、当然学校の先生(担任だったり国語の先生だったり)に見てもらってるもんね。私が直したものをさらに学校の先生に見てもらって・・というケースも当然多い。

 

以前書いたようになんだか変なルールを課している例では「そんなことはありません」で一蹴。

小論文の指導で、明らかに学校の先生の読みが間違っている例も、先生の悪口にならないようにそーっと間違いを指摘する。

近々のケースでは、生徒さんが誤った読解(かなり壮大な誤読)の元に小論文の議論を展開していて、内心これやと全く点数ないなぁ・・と思いつつ「いやいや、そういう話とちゃうし」と言って本文を解説していると、生徒さん泣きそうになりながら、自分の論文の「ここもダメですか?」「ここもダメですか?」。いや、その部分部分の表現自体はOKでも、全く異なる文脈に置かれているから、そもそも問題に応じた論文になってないんです。で、その生徒さんその期に及んで「学校の先生の添削ではこうなんですけど・・」と恐る恐る出してくる。それを見ると内容には手をつけず、表現の添削だけをしている。生徒さんが先ほど「ここもダメですか?」といちいち念を押した部分には丁寧に二重丸とかつけてあって褒めている。さては、学校の先生も本文を誤読したか・・とチラと思ったけど、そこは「学校の先生はきっと問題文を読まずにあなたの論文だけ読んで添削しはったんやない?」と言うておく。もしもそういうテーマだとすればそれなりによく書けてる文章だもの。

 

とかなんとか、人の失敗をあげつらってヤな性格ですね〜。

そう言う私も、誤読したことなんて数知れないし、間違ったこと教えたり嘘教えたりすることも(かなり経験積んだ今に至っても)多いし。

 

困るのは、例えば志望理由書などで「ここを強調した方がいい」「こっちを先に書いてこちらは後回しにした方がいい」的に、構成的な部分で学校の先生と意見が異なるとき。私も、その先生も、それぞれに理屈あって「こっちを先にしたほうが・・」とか言ってるんですが、こればっかりは双方ともに理があってどっちが正解とも決められませんわ〜。けっきょく生徒さんに決めてもらうことになる。

読む方の立場になって、さてどっちがアピールするのか?・・実はあんまり違わないかもしれないんだけどね。

 

放射能汚染水(ごめんハッキリそう呼びます)の海洋投棄について、国内メディアが「日本は科学的根拠に基づいて完全に安全な処理水を放出しているのに」「中国などは非科学的に(あるいは嫌がらせで)禁輸措置などを行なっている」という論調にほぼ統一されていてゾッとする。なんてなんてなんて「内向け」の報道!そんなもん世界には通用しないよ。

まずは「科学的根拠」がほんまに正しいかどうかを疑ってかかるべきなのに(水俣とかコロナ禍の例を見れば明らかでしょうに)それをしない。また外国からどう見られているかを無視する(orふりをする)(海外メディアはもうずっと前から論じてますぜ)。この調子だと、政府が発表すること、メディアが報じることを完全に信じるナイーブな(←悪口です)人たち・子どもたちは「日本は悪くない・中国が悪い」と信じこまされてしまうんやろうなぁ・・。私なんて、中国の暴徒が口走ったとかいう「海は世界のものだからそれを汚すと世界中の人たちが困る。でも日本なんか消えて無くなったところで世界の誰も困らない」に思わず頷いてしまいますぜ。世界に害をなす日本(という国)なんていらないよね。・・ただまあ日本語とか日本文学とか日本文化とか藝術とかは無くなってほしくないけどね。

と、ここでも言っちゃった。私の基本的立場は「汚染水放出を一刻も早くやめよ!」というものです。

でまた、これで「中国憎し」の人々が増えるんだろうなぁ・・と思うとうんざりです。

 

というのは、先日の「無知の罪」にもつながることだけど、子どもたちの作文や中高生らの小論文読んでて、平気で出てくるゼノフォビア(外国人嫌い)の言説に常々うんざりさせられてることもあるんです。

外国人労働者が増えることの「デメリット」として「治安が悪くなる」「犯罪が増える」。

カルチャーギャップの例として「中国人が温泉で湯船にタオルを漬けてるのを見た」。

こんなこと書いたらダメでしょう!と言うと、不思議そうな顔をする。なぜダメなのか、説明してやらないとわからない。

(親御さんたち、先生方、ちゃんと説明してあげてね)。

(一部の困った親御さんたちは「なんでいけない!事実やんか!!」って激昂するかもしれないけど、あいにく大学で受験生の答案見ている先生らはリベラル系多いです。右翼とみなされている大学でさえ、ちゃんとした右翼であってネトウヨ系のヘイトスピーチめいた言説はダメ出しすると思います。)

 

でもね、わからんでもないんです。小さい頃から親も親戚も近所も友達も学校も全部日本人で周りを日本人だけに囲まれて、日本語だけで生活し、なおかつ親が中国人韓国人を悪く言うような人たちだったとしたら、そりゃー子どもたちは自然とゼノフォビアになっていきますよ。閉鎖的なコミュニティが異端者を特に嫌い、外から来る者を警戒して排除しようとするのは、これは日本人には限らないもの。

だから、これからの世の中それでは通用しないんですよって。

日本人だらけの(そして表向きノーマルな人たちしかいない)環境で子育てしている親なら特に、内向けに閉ざされた視線でなく、外に開かれた視線を子どもに身につけさせることを、意識して行うことが必要なんじゃないかな。

外から来る人(や事物)、あるいは日本のなかでも異端者扱いされるような人たち(いわゆるマイノリティ含め)、そういう人(や事物)たちと必ずしも「仲良く」「協調する」必要はないけれど、少なくとも人間として尊重しあい、通じ合うためのルートを模索するぐらいの意識やスキルを身につけさせてあげたいものです。

 

最初に私の書いたことを見て「偏向している」と受け取った人はここまで読んでくれてないかもしれないけど・・。

でも少なくとも外国語のニュースを見て、外国語の新聞を見て、と言いたいですね。

で、Jポップ(特にジャニーズとか)だけでなく、あらゆる世界の音楽聴きましょう。世界のあらゆるアートや文学や映画などに触れることから始めましょう。

 

ちょと小論文の話からはずれます。

 

「悪に対して正義の鉄槌を下す」のは実際に脳内に快感物質が放たれてかなりの快感らしい。という研究結果があるそうです。

そこまでいかなくても「無知の人に教えてやる」快感てのは確かにあると思う。女たちに「教えてあげる」おじさんの跳梁跋扈を見ればわかるではないか。女は無知だと決めつけ「教えてあげる」ことで尊敬されたがる男たち。わたしもよく被害に遭いました(笑)。初対面の人とおしゃべりしてるうち相手よりもこちらの方が知識量において勝っているのが徐々に明らかになると、「女の癖に異様にもの知ってる」「お前何もんなんや?」とか訳のわからない非難をされたこともありました(笑)。

いや、それはともかく。

 

わたしも無知な若い衆(性別問わず)に「教えてあげるばーさん」やることは快感であることは重々わかっています。ので、自戒せんといかんなとは重々承知しているのですが・・・。

それにしても、若い衆らよ、知らなさ過ぎへんか?と感じることもしばしばあります。

 

今日は防災の日で携帯スマホがある時刻になると一斉に鳴りました。

(たまたまその時間帯に映画館に行ってた筆者は「何時何分になると市から防災アラートが発せられマナーモードでも携帯鳴りますから電源切っておいてください」と念押しされました。わたしのスマホはそれでも鳴らないように設定してあるけど念のため電源切ったけどそれでも映画館内鳴らしてる人何人かいたな。

 

それはともかく。「防災の日」て何の日ですか?

関東大震災が起こった日なんですよ。

そのとき起こった朝鮮人虐殺を「なかったことにしよう」とする向きがあることに恐怖を覚えます。

「歴史的評価が定まってない」だの「政府の公式記録がない」だの。果ては「流言蜚語の典型とされてること(朝鮮人が井戸に毒入れてまわってるとか)は事実だったのだ!」だの。(最後のはホントに酷いです。ひどすぎる)

え、そうなの?と思った人たち。

うまうまと乗せられた人たち。

それって無知につけこまれてるんですよ。わかってますか? 若い衆らよ。(若い衆には限らないかもしれないが。いわゆるネトウヨさんは年配の人が多いとも聞くし)

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小論文講師の方のなかにはどうやったって書けない子にはテーマごとにこう書いてくださいねと定型文を教えてしまう向きもあるらしい。そりゃあ採点する側が金太郎飴というはずだわ・・。おんなじようなのを何枚も何枚も見せられるのはさぞかしうんざりすることだろう。

よくある小論文の構成はこう書きましょうというのも、似たような答案を大量生産する元凶だと思うが、例えば「起承転結」とか元々は唐の(昔の中国の)絶句(四行で構成された詩)の一行一行を「起句・承句・転句・結句」と呼んだことから来てるので、そりゃ四行詩の構成としてなら、また四コママンガとか物語とかの構成としてなら、いい感じになることはわかる。でも論文構成としては「転」のところでひっくり返ってしまうことが多いのよね。いや無理やりその四段構成にあてはめようとすることもできるけど・・。

わたしは序論・本論・結論の三段構成を「一番書きやすくて整いやすいよ」と言って教えますが「でもこの構成にこだわることないからね」と必ず付け加える。自由に書けばいいんです。どういう構成でなければならない、とか、こういうときは必ずこうするとか、こういうことは書いてはならないとか、なんだか変なルールが小論文指導界には飛びかってて、「なんでこう書いたの?」と聞くと「先生が〜は必ず〜しなさいと教えてくれました」と。学校の国語の先生らしいけど。思わず大きな声で「そんなバカなことはありません」と言ってしまった。なんでそういう変なルールが横行するのか・・。

「自分の体験を書いてはいけません、あくまで客観的に書くように」と教えられたという子もいたな。いや、自分の体験は積極的に書いてください。そんなユニークな体験してへんし、と思うかもしれないが、自分の経験になんらかの「価値」を見出すこともひとつの人生勉強だからね。