茶の間を出て、父の書斎にはいると、昔と同じようにすべてのものが、ちゃんと整頓されていた。書棚には仏教訓話集や生長の家の全集が並べられ、机の上には筆立てやハンコや大きな銅の文鎮がおいてある。二十年前、彼が大学生だったころと何一つ変っていない。それは父の今日までの変化のない生活をあらわしているようである。この書斎に新しく入ったものは「人間万事無一物」と書いた額だけである。これは父とは何の関係もないなと勝呂はうす笑いを頬にうかべた。(14頁)
この父に少年時代から処世訓めいたこんな話を幾度、きかされたことだろう。「仏教訓話集」や「生長の家全集」そういった書棚の中の本から取ってきたような話を父は勝呂にきかすように、自分の生徒たちにも聞かせてきたのである。(15頁)
上の引用は、遠藤周作さんの短編小説「影に対して」からのものです。
この作品は、遠藤さんの没後発見された生前未発表のものだとのことです。
文中にある「生長の家の全集」「生長の家全集」とは、谷口雅春先生の主著『生命の實相』のことを指しているといって間違いないでしょう。
ちなみに二つ目の引用にある「処世訓めいたこんな話」として前段にある父の話は、およそ「生長の家の全集」「生長の家全集」には説かれていない内容です。
それはともかく、この作品は自伝的作品とのことですので、遠藤さんの実の父の本棚に実際如上の書籍が並べれていたのでしょうか。そうであっても不思議ではありません。『生命の實相』は広く読まれていたのでした。
【「影に対して」は単横本『影に対してー母をめぐる物語』(新潮社、2020)所収】
付記
以前に書いた関連するもの。