徳山市四熊の地にそびえる四熊ヶ嶽の名については、次のような古伝説がある。
遠いむかし、神武天皇御東征のみぎり、周防灘にて風波に遭われ、平野付近に難を避け、神上の地に仮御殿を設けてしばらく滞在なされたという。
その一日、天皇は付近の高根に登られたところ、「‥…穴有、その穴より熊四匹出て地にふしぬかづきければ、此山を四ツ熊の峰との玉ひ……」、これよりのち、この高根は四熊嶽と呼ばれることになったといわれている。
天皇は、この山より四方の地勢と御東行の道を按じさせ給い、周防台地の南麓付近を北山、大河内、馬屋、老郷地、上地、浴、時宗へと東進された由、里の人々は今に語り伝えている。
爾来、四熊嶽は霊峰として権現社が勧請され、ここより北東部の大向にそびえる霊峰金峰山の権現社と東南部の大島太華山 の権現社とともに、北・東・西の三面から徳山毛利氏の城下を守護するよう位置しているといわれ、四熊・太華の権現はそのため社殿が向かい合っているといわれる。なかでも、四熊権現に寄せる人々の信仰は篤く、ことに「伏の目の権現まいり」といって、夏の土用を中にしての初伏・中伏・末伏の三つの伏の日には、近郷近在からの参詣者で一年一度の嶽の賑わいをみせる。
というのは、昔から初伏・中伏・末伏の三つの伏の日には稲がひとふしずつのびるといわれ、この日には田に入ることを忌む習わしで、もし入って稲葉で目をつくと失明すると信じられている。農家ではこの日には必ず仕事を休み、四熊嶽の権現へ、清浄な川砂を持って参詣し、川砂は社前に供え、代わりに下山にはお山の砂をいただいて帰り、これを田に撒くと、稲には虫がつかず、すくすく育ち、豊作するとの呪いが行われている。
(2024.04.12 登山)