いつかの青い春の日
「なぁ〈ライダー〉、春にはどっかの研究所に入ることになったって本当か?」
「それは本当ですが、いい加減その変なあだ名で呼ぶのはやめてもらえませんか、ショウ先輩?」
大学の研究室にあった荷物をまとめる手を止めて、人のことをあだ名でばかり呼ぶ先達へと振り返る。
椅子にかけてあった俺の白衣を摘み上げてニヤニヤと笑う年上のベビーフェイスは、しかし指を振りながら俺の方に歩み寄ってきて。
「いやいや、可愛い後輩よ。お前が麻生勝って名前だということは先刻承知の上だぜ? でもよ、やっぱり〈ライダー〉って感じするじゃん? お前のその姿を見てそう呼びたくなるおれっちの気持ちもわかってほしい」
「ショウ先輩があんまり言い続けるものだから、同じゼミの人たちからもそう呼ばれるこっちの身にもなってほしいですね。それに、バイクが趣味の研究者志望の大学生なんてどこにでもいるでしょう?」
「それだけじゃないだろ、ヒーローってのはさ!」
呆れた声を出したつもりだったが、この人はまた愉快そうに笑って指を振る。
「白衣の科学者なんてヒョロヒョロばっかだと思ってたらよ、こんなガタイのいいハンサムさんときたもんだぜ? おまけに悪だくみする輩には、そんじょそこらの見掛け倒しとは違う、正義の鉄拳が飛ぶってんだから、そりゃもう〈ライダー〉しか呼び方ないだろ!」
「トライアスロン選手の賞金稼ぎ様が持つ柔軟性には勝てませんがね」
「ウソばっか言いやがる! サラから聞いたぜ? この間も学内に出た不審者、一発でKOしちまったって!」
「たまたま悪質なストーカーに追われていた子を守っただけです。それにちょうどサラ先輩が来てくれたおかげで、その子も安心して警察に行けたようですから、どっちかといえばヒーローはサラ先輩ですね」
「なんだよ、自分がいなくても何とかなった、みたいな言い方して」
「あのストーカー、サラ先輩が先に見つけていたら、俺の拳は要らなかったでしょうし」
「あ〜、まぁ、そうだな。なんせサラは《地獄帰りのサラ》だもんな。エイリアンが来ても返り討ちにしそう」
「ショウ先輩、人に変なあだ名つけるのやめた方がいいですよ。サラ先輩、怒ってましたから」
「うへー、アメリカ帰りのお姉さんは怖いねー、ヤマトナデシコって言葉知らんのかしら」
「そういう人ほど、部屋に可愛いぬいぐるみとか飾ってたりしそうですけどね」
「あのサラが⁉︎ プププ、そいつぁ、お可愛いヒーロー様だことで〜♪」
「それにヒーローは先輩もでしょう?」
「へ? おれが? なんだ〜なんだ〜? 春だからって変なものでも食べたか〜?」
気にも留めないように、カップに入った飲みかけのコーヒーを一口すすって舌を出している。
わかっているくせに。いや、わかっていないからこそ、ヒーローなのかもしれないが。
「普段はお金儲けや女の子のことばかり口にしているけれど、本当は困った人のことを放って置けない熱血漢で、よく一人でいた学部の違う後輩にも気さくに声をかける優しい人物……そういうのもヒーローと呼ぶのでは?」
「うげっ⁉︎ なんだよ、ヤブから棒に……いきなりおだてても、何も出ねぇぞ?」
「ありのままを言っただけですよ。それに、これからは先輩とこうして話す機会もなくなるでしょうから」
我ながら感傷的なことを口走っているなと思う。
けれど、小さく咲き始めた桜を窓から見ていると、無性にそんな言葉がわいてきて。
「なぁ〈ライダー〉?」
何度も繰り返された変なあだ名は、しかしそれを口にする先輩のどこか静かな声のせいで、いつもと違って聞こえてしまって。
「おれは遺伝子がどうとか、研究がなんだとか、よく知らねぇよ? 正直その手の話をされると、途端にお前が宇宙人に見えてくる。でもよ、お前が大学を去ったらもう何も話すこともねぇ、ってこともないんじゃねぇか?」
「と、言いますと」
「ウワサ聞く限り、あの望月って博士さんは優しくて良い人らしいがよ、そういう人間ほど研究や仕事に熱中して我を忘れることもあるんじゃねぇかな」
驚いて、思わず目を瞠ってしまった。どっかの研究所、なんて言っていた人が、きっちりその所長の名前を出してくるから。
「そしたら大変だぜ? 助手だか研究員だか知らねぇが、入ったばかりの頃は色々とこき使われてストレスも溜まるってもんだろ」
「覚悟の上です。それにあの望月博士のところで研究ができるなら、きっと……」
「おーい! 先輩の話は、最後まで聞きやがれっての!」
「と、言いますと……」
「だーかーらー! 同じ職場の人間には言いづらいことでも、悩んだ時は酒の肴に聞いてやるって言ってんのー!」
「……それ、ショウ先輩が飲みたいだけでは?」
「うっわ、可愛くねぇ反応⁉︎ これだからインテリ科学者ってのは〜⁉︎」
「ふふ」
思わず笑ってしまった。あまりにも、いつも通りに時間が過ぎていくから。
別れが来るなんて本当はウソなんじゃないかと感じるほど、当たり前の、いつも通りな、この一瞬が。
「ま、飲み会はともかく、困ったらいつでも聞いてやるってのは本当だからな? 可愛くねぇ後輩だけど、うちの大学出身者が研究所で大暴れ〜、なんてニュース、聞きたくねぇし?」
「じゃあ、その時はサラ先輩も呼んで三人で」
「なんであいつも呼ぶんだよ⁉︎ こういうのは男同士で語らうもんだろー⁉︎」
「アメリカ帰りの秀才で、しかも綺麗な大人の先輩の意見も聞きたいと、そう思う気がするので」
「ったく、一人だけサクッと進路が決まったからって浮かれてんじゃねーぞ、このこの〜!」
このじゃれつく時間すら、今はなんだか惜しい気がしてくる。昔は鬱陶しいとさえ思っていたのに、春の陽気のせいだろうか。
「おれだってそのうち、イカしたブルーの制服とか着るスワット部隊が頭下げてスカウトしに来るくらい有名になってやるんだからな、そん時は覚悟しろ……ん?」
不意にドタバタと音がして、勢いよくドアが開いた。
「あ、ショウちゃん、やっぱりここにいた! 白金教授が『レポート提出が遅れている人には単位進呈はやめにしましょうかね』って言ってたよー!」
「うげぇっ⁉︎ マジかよセイジ⁉︎ ったく、しょーがねー。じゃ〈ライダー〉、またな!」
それだけ言い残して、先輩は風のように去っていく。まったく、どっちがヒーローなんだか。
「バイクに乗って颯爽と現れる仮面のヒーロー……〈仮面ライダー〉、か」
子どもの頃に憧れた正義の味方はテレビの中にしかいない。そんなこと、先輩だって知っているのだろう。
それでも、俺にも近づける日が来るのだろうか。
まだ幼い子どもの頃、胸焦がれるほど憧れた……強く優しい、そんな人間に。