シン・仮面ライダー 《怖い》ほどの愛をありがとう | Slipperの部屋

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『仮面ライダー』等の特撮ヒーローを愛好しております。気ままに書きますので不定期更新で失礼。

わるモノ。

わらないモノ。

そして、

えたくないモノ。

 

 

 

 どうも、当ブログ管理人のスリッパです。

 

 先日、全国最速の舞台挨拶付ライブビューイングというのにしれっと滑り込みまして……

 だってさ、行けるとわかったら、もう手が止まらなかったの……

 

 始まるまで震えていたのですが(割と誇張抜きで)、始まってみればキャストさんたちの言葉にちょっと嬉しくなったり笑ったり、思わず小さな拍手をしていたり……

 そして本編、非常に良かった。

 もちろん『仮面ライダー』の良さを伝えたいと思う一ファンとして「100点満点、文句なしの完璧!」とは言い難い部分もありましたが。

 しかし、やはりこの映画を「愛してる」と思える点はたくさんあった。

 

(ちなみに鑑賞直後に書いたツイートです……情緒がぶっ壊れているのがご理解いただけますと幸いです)

 

 

 そんな新作『シン・仮面ライダー』について、少し備忘録を残せればと思います。

 

 

※当記事はネタバレを含みます。ご鑑賞後の閲覧を強く推奨いたします。また、一部不快感を覚える文言があるかと思いますが、予めご了承ください。

 

 

 

『シン・仮面ライダー』

監督・脚本等:庵野秀明

准監督:尾上克郎

副監督:轟木一騎

 

 

 

  STORY

 

Kamen Rider Takeshi Hongo

is an augmented human being.

He was upgraded by SHOCKER,

an all-loving secret society that pursues

happiness for humanity.

 

Kamen Rider has pledged to fight

against SHOCKER to ensure

human beings stay human.

 

(公式サイト内ポスター5枚目より抜粋)

 

仮面ライダー本郷猛は強化人間である。

彼は、人類の幸福を追い求める博愛の秘密結社SHOCKER(ショッカー)によって

アップグレード(改造)されてしまった。

 

仮面ライダーは、人類のありのままの姿を守るため

SHOCKERと戦うことを誓うのだった。

 

(身勝手ながら、なるべく直訳に近い形で意訳をさせていただきました……「違くね?」と思われた方、拙い英語技能でごめんなさい……「ふーん? お前はそう思ったんだ、ふーん」と思ってください……)

 

 

 

スリッパの備忘録 

 

 

 先に私の前提をお話しないといけません。

 

 私は趣味で小説を書いております。

 それも「仮面ライダーっぽいもの」を目指して。

 しかしそれは単に「へん~しん!」と言って悪者を蹴り飛ばすヒーローという意味ではなく。

 原作者=石ノ森章太郎先生が描こうとしたもの……「仮面に怒りと哀しみを隠し、それでも愛したものたちの為に、迷いながらも嫌いな暴力によって誰かを守る気高さ」を表現したいなぁ、と。

 そういう作品テーマの《核》を失わず、しかし私なりの解釈で描けるならと……

 

 もちろん、シビアな読み手の視点に立ってみれば「完璧だ!」とは言えません。

 それでも「ここが好き!」と思えるところを詰め込み、時に取りこぼしたと涙をしながら、でも読んでくれた人が少しでも「良かった!」と思える物語を描きたいと日々、暗中模索しております。

 

(私の書いた「仮面ライダーっぽいもの」を目指したシリーズです。良ければ……!)

 

 

 そんな私からすると、今回の『シン・仮面ライダー』は、庵野秀明氏という深すぎるほどの作品愛を持った人物の解釈を、その愛を「みんなに伝えたい」と発信されたのだと思っていて。

 

 そういう意味では、先の展開など1ミリも知らないはずなのに「おお、そこを持ってこられましたか!」とか「やはり、ここは外せませんよね!」とか、そんなことばかりを考えながら観ていた気がいたします。

 もちろん「そんな発想があったとは、すごいですな!?」と驚いたり、「ぬぬぬ、ここはどうなっているのかしら……?」と考えてしまったりもしていましたが。

 それこそ「暗い中での戦闘シーンを多用するのは、初代ライダーの特に初期で観られた『らしさ』ではあるけれど、今の時代にそこに注力しすぎて、初めてライダーに触れる人が混乱しないかしら」と邪推まで……。

 

 ただ、最近の『仮面ライダー』を冠するシリーズで私がちょっと不服だなと感じていた点に対して、すごく丁寧に描いてくれた部分が嬉しかったことを挙げねばなりません。

 

 それは物語の序盤、ライダーが戦闘員たちを薙ぎ倒していくシーン。

 

 特に《血》の描写。

 

 改造されたばかりの本郷猛は、その兵器となった肉体を制御できず、「生存本能を刺激する機構」を持つ仮面の影響もあって、SHOCKERの戦闘員たちに過剰なまでの威力を発揮します。

 重要なのは、そこで戦闘員たちが吐き出す血の量や、出し方。

 つまり「どうしてこんなに血を出しているのか」という狙いが非常にわかりやすい。

 それが「この異形の存在はこれだけの暴力を行使する《怖いモノ》である」と伝えてくれている。

 

 そう、仮面ライダーは《怖いモノ》なんだよ、と。

 

 

 現在絶賛放送中の『仮面ライダーギーツ』をはじめとして、既に20年以上も連続してテレビで『仮面ライダー』シリーズが続いています。

 俗に〈平成ライダー〉や〈令和ライダー〉なんて呼ばれ方をしていますね。

 個人的には新しいライダーが現れる度に「カッコいい」の中にどんな《怖さ》が入るのかとワクワクするのですが。

 同時に「この作品は、本気で《怖さ》を描こうとしないんだな」と感じると心が萎えてしまう自分がいることにも気付きます。

 この『シン・仮面ライダー』をご覧になった方々がどれだけその《怖さ》を感じたかは本当に人それぞれかと思いますが……

 

 極論、『仮面ライダー』というのは、その《怖いモノ》に変えられてしまった主人公の物語。

 しかし人の心だけを道標にして、その《怖いモノ》たちと……ひいては《怖いモノ》を創り出す人の世の絶望そのものと戦う物語だと私は思っていて。

 

 

 もちろん現行のテレビシリーズが、それぞれの作品世界や現代なりの《怖さ》を考え、様々な制約の中でそれを提示しようとしてくれる部分は否定しません。

 ただ、そのインパクトやテーマ、本当に伝えたいものがどれだけ滲むか、という点において、やはり私などは「物足らないな」と感じてしまう時がある、という話でして……。

 

※あくまで個人の感想です。子どもの頃に『仮面ライダー555』など、衝撃度が高い作品に魅了された側だからこう思うだけかもしれないので、今の子どもたちには『ギーツ』をはじめとしたライダーたちが同じように衝撃や魅了を与えてくれるなら幸いと存じます……

 

 

 また、この《怖いモノ》という話は、実は『仮面ライダー』がカッコいい仮面に隠しても滲み出してしまうテーマとも直結しているなと。

 それは特に石ノ森章太郎先生がマンガを通して描こうと注力された点。

 

 

   「人を殺したのに僕はどうして平気でいられるんだ……?」

 

 

 この映画で私が特に印象的だと感じたのは、戦闘員たちをその手に掛けた本郷猛自身が、自分に戸惑う姿とその自問。

 グローブの下から現れた「人間とは思えない手」や、引き剥がした仮面の下から見えた「充血しきった眼や額に浮かぶ第三の眼を湛えた怪物然とした顔」など……そういうインパクトのある画面にも歓喜したのですが、やはりこの《人間》としての自問が愛おしい。

 

 テクノロジーが暴走した結果に残るのは、およそ法の下の平等を生きる人間なら忌避する「殺戮」を何とも思わなくなってしまいそうな心……その《怖さ》かもしれない。

 つまるところ。

 

「暴力の後に残る虚しさと寂しさ、そして《怖さ》」

 

 これを真摯に描こうとしてくれたことが嬉しかった。

 

 この作品は変身ヒーローもの……つまり「バトルアクション」という部類。

 しかしそれが「暴力で他者を傷つけて、平気で笑っていい」ということを観た人たちに伝えたいと、果たして言えるのでしょうか?

 

 テレビシリーズの『仮面ライダー』が始まった当時(1971年)は、第二次世界大戦から25年という歳月が過ぎて日本は高度経済成長期の中。

 しかし世界を見渡せば、「米ロ冷戦」「ベトナム戦争」「カンボジア内戦」……あまりに多くの争いが、哀しい暴力の連鎖があった。

 戦争に勝利しようとも、禍根は残る。むしろそれが次の戦乱の火種になって、自分たちの子どもや孫の代まで血で血を洗う殺し合いは続くかもしれない。

 同時に日本は初めて核兵器を落とされた国であり、もし第三次世界大戦が起きれば人類そのものが破滅するのではないかという兵器を間近に見てしまった国でもある。

 

 それでも、世界から戦争はなくならない。

 暴力によってしか解決しえない状況はなくならい。

 争いがどこかで起こるなら、勝つための兵器は不要にはならない。

 ならばより強い兵器を、より効果的な兵器をと望むのは、あるいは仕方がないのかもしれない。

 

 ただ、その行き過ぎた力が……制御不能な暴力が、次はどんな哀しみを産むのか。

 

 たとえ戦いに勝っても、誰かから命を奪ってしまったという虚しさ。

 その戦いの犠牲になった誰かを、その多くを取りこぼしてしまったと思い知らされる寂しさ。

 そして自分が、同じ暴虐をその手で行ってしまえるという怖さ。

 

 石ノ森章太郎先生が伝えたかったのは、そうした痛みを感じる心……人の情を忘れないでほしい、ということだったのかなと。

 

 そういう意味では、今作は序盤から変身した彼の姿を《怖いモノ》として描くことで、思わず目を見開いてしまうアクションと、それだけのことができる存在に……怪物に変えられた自分に苦悩する青年の物語であると訴えかけているんじゃないかなと。

 

 特に今回、池松壮亮さん演じる本郷猛は「頭脳明晰・スポーツ万能、ゆえに孤立しがちなコミュ障の青年」として描かれました。

 また「父を暴力に殺された青年」として、不幸と幸福の狭間に置かれたことで、より訴えたいテーマが浮き彫りになっているなぁとも感じます。

 

 1971年から藤岡弘、さんが演じる本郷猛は、物語開始当初から両親を喪っているという点では共通していますが、そこについての哀しみには作中あまり触れられません。

 マンガ版ではアメリカンコミックヒーローの『バットマン』よろしく「死んだ両親から莫大な遺産を相続したお坊ちゃま」という属性すらあるものの、それでも両親について回想することもない。

 

 対して今作での本郷猛は、「目の前で父が、名前も知らない誰かの暴力によって殺されている」というトラウマが大きなポイントに。

 1970年代なら「父の仇、憎むべきショッカー!」と言ったかもしれない。

 しかし本郷猛について緑川博士(演:塚本晋也さん)が注目したのは「大切な人を守る力が欲しい」と……怒りによる復讐者ではなく、哀しみと迷いに苦しみながらも守護者でありたいとする意志。

 つまり……《優しさ》

 私が嬉しかったのは、ここもなんです。

 

 

 本郷猛は《優しさ》ゆえに「迷う」……

 

 

 そういう青年として描かれたことが、嬉しかった。

 嫌な言い方をすれば、テレビシリーズの本郷猛というのは、否応なしに「頼もしいお兄ちゃん」であり続けなければいけなかった。

 2年近くも続いた人気シリーズ、その主役が「毎回ずっとウジウジしてる」というのも、おかしな話かもしれませんが。

 しかし、暴力を振るうことの痛みを知っていて、それがもたらす「命の剥奪」という結果に心を痛める感性を持っている。

 そんな人間が、ずっと「はっはっは!」と不敵に笑ってみせて、悪事を行う敵と戦う姿を見ていると。

 本当は、画面には映さないところで、もっと苦悩と葛藤に顔を歪めていたのではないかな、と。

 

 私はそんな「迷い」を描くことに大きな《文学性》があると思っています。

 

 簡単に誰かを傷つけて笑う悪漢たちから人々を守る英雄だからこそ。

 その手の中にある行き過ぎたた力への葛藤や、コートに隠すことでより強調される「もう元の身体には戻れない」という哀しみは、そのまま《人間》を描くことにも直結する。

 

 特に、もう一人の主役として立ち上がる仮面ライダー第2号=一文字隼人(演:柄本佑さん)をはじめとして、オーグメンテーション(強化改造手術)を施されたオーグ(怪人)たちが非常に個性的な《人間》として描かれているのも、魅力的。

 たとえ洗脳を受けているとはいえ、本人たちの根幹に直結する感情や欲求が大きく発露していることで、単に組織の一部というだけで留まらない、まさしく《人間ドラマ》を形成しているなと。

 

 

「自らの手で獲物を狩る」という点に幸福を見出し、処刑人として力を振るうクモオーグ(声:大森南朋さん)。

 己の疫病研究に心酔し、その威力を以て「凡人に私の才能を知らしめる」と笑うコウモリオーグ(演:手塚とおるさん)。

 自身を頂点とした「完璧な集団社会」のため、人々の自我を奪って支配するハチオーグ(演:西野七瀬さん)。

 散っていった先輩の敵討ちとして、暗殺者としての力を自らの意思に乗せたカメレオン・カマキリ(K・K)オーグ(演:本郷奏多さん)。

 

 

 どれも決して「荒唐無稽だ」と笑えるようなものではなく。

 むしろ世界に対して苛立ちや絶望を抱え、それを壊してしまえるだけの力を持ったからこその思考。

 

 特に疫病についてはCOVID-19の渦中にある現代だからこそ考えることもあるし、その混乱で垣間見えた「不安から暴走する人の感情」を知っていればこそ「完璧な集団社会」を求めてしまう心もわかるのではないでしょうか?

 当然、そんなことを考えさせられる世界における「同胞」や「先輩」として心を許せたなら、その仇討とて、理解できないことなどではないはず……。

 

 

 また、そんな彼らとの戦いを通じてヒロイン=緑川ルリ子(演:浜辺美波さん)が《人間》らしくなっていく姿も印象的。

 

 兄=緑川イチロー(演:森山未來さん)の「全人類の魂を嘘も争いもない理想世界へ送る」という計画を止めるために組織を裏切った彼女。

 父を守れなかったと謝る本郷へ「気にしてない」と言い放つなど、冷徹さすら感じる彼女が、しかし「優し過ぎる」と評した本郷と行動を共にする中で、徐々に変わっていくのがまさに《人と人が出逢うことで生まれるドラマ》を感じるところ。

 

 特にハチオーグとの戦いの後……組織で生まれ育ったルリ子にとって「友達」と呼べた相手の死に直面した時の感情の発露が、私はとても胸に来ました……。

 

 石ノ森先生が『仮面ライダー』で描きたかったことの一つに「望まない相手との戦い」というのはきっとあったはず。

 それは昭和最後のライダーにして「ライダー0号」と先生自身が銘打った『仮面ライダーBLACK』でのシャドームーンなどを観ると感じるものがあるのではないでしょうか?

 無論、初代ライダーでも「親友との対決」はテレビシリーズの第三話から描かれております。

 

 そういう意味では、組織を裏切り「周囲は敵だらけ」となったルリ子が、《人間》としての感情を押し殺して戦おうとしていたのに対して。

 本郷という《怖いモノ》に変えられながらも、優しさを忘れず迷いながら、それでも《人間》らしく在ろうとする心に変えられていく。

 

 

 そんな彼女が止めようとするイチロー。

 実は本郷猛と境遇としてはかなり近いところにいるんですよね。

 誰かの無差別な暴力による被害者遺族であるという一点で、二人は共通している。

 

 ただし、そこから二人を分かつのは、その思想。

 

 

「暴力も嘘もない理想世界」を目指し、人間らしさを棄てていこうとしたイチローと。

 

 

「暴力から誰かを守りたい自分」を望みながら、けれど人間らしく迷いながら進んできた本郷と。

 

 

 どちらもプラーナを……この世界に生きる誰かのエネルギーを奪って生きていくのは変わらない。

 それでも、その力をどう使うか、どう生きるかが彼らを分けた。

 

 バッタオーグが相手なら、自分が強化カスタムしたバッタオーグで対応しようと……隷属させた誰かに任せるイチローと。

 自身の苦しみや葛藤もありながら、それでもルリ子の孤独に寄り添い、共に戦うことで信頼を勝ち得た本郷と。

 

 特に、その信頼と願いがよくわかるルリ子のセリフ。

 一文字隼人の洗脳を解除した時の、あの言葉……。

 

 

   「あなたも仮面ライダーになって……彼を助けて」

 

 

 ここ「一緒にSHOCKERを倒せ」でも「私たちに協力してくれ」でもなく。

 

《助けて》……SOSだった。

 

 独りで哀しみに震えながら、それでも自分の味方でいてくれた本郷猛。

 そんな男を想うルリ子の心が表れた、これ以上ない言葉じゃないかって私には思えて……。

 

(とか言いつつ、一度しか見てなくて、私の記憶力がだいぶアレなので正確にこう言ったかは定かではないのですが……)

 

 

 奴隷ではなく仲間を作る。

 損得で群れる同胞ではなく、心の自由に従って共に立つ同志を。

 

 初代ライダーの売れたポイントに「ライダーと滝」や「本郷と一文字」という具合に、泥臭くも戦う男たち二人の掛け合い……大人の信頼関係があったのでは、という話をどこかで聞きまして。

 たぶん、この映画での二人もそうかなと。

「優しさゆえに哀しみを仮面に隠す陰キャな本郷」と。

「悪への怒りを明るい笑みという仮面に隠す陽キャな一文字」。

 そういう明暗のコントラストがきっちりと出たコンビ……共に並び立つ仲間として描かれていたなと。

 

 だからこそ、独りで「理想世界」を目指し、大量のプラーナ(圧縮された生命エネルギー)を秘めた最大の敵イチロー=チョウオーグに、ルリ子の託したものを届けられた。

 

 それはきっと本郷一人では成し得なかったことで。

 ルリ子との信頼関係がなかったら、あるいは託されもしなかったかもしれない願い。

 一文字という頼もしい援軍なしでは勝ち筋の視えなかった戦いでもあった。

 

 

 時に、その戦いの果ての……最期。

 一文字隼人に託された仮面と、そこに残されたプラーナ……。

 ある意味ではスピリチュアルな話に見えるのですが。

 

 私には、すごく納得できる気がして。

 

 プラーナは「宙空に漂っているエネルギー」というサンスクリット語の言葉なんだとか。

(パンフレット内、森山未來さんのインタビューに書いてありました……)

 調べてみると東洋医学的には《気》……つまり「生命エネルギー」と解釈できるそうで。

 また「聖典・古潭・神話伝説」など、そういった文献という意味もあるのだとか。

 突き詰めれば人が生きて、誰かに繋ぎ、そうして遺してきた意思や思考……想いそのもの。

 そんな概念を表す日本語の言葉ならば、やはりこの単語ではないでしょうか。

 

 

――《魂》、と。

 

 

 

 エンディングで流れた三曲が、彼らの旅路を思わせてくれるようで。

 その余韻にずっと震えていました。

 もちろん、百点満点で文句なし、とは言えません。

 ただ、この《怖い》くらいの深い愛情が自分にも伝わったのが、ただただ、嬉しかった。

 

 

「時代が望むとき、仮面ライダーは必ず甦る」

 

 

 石ノ森章太郎先生の遺した言葉を胸に主演=池松壮亮さんがコメントしたという言葉を是非きいて欲しい。

 

   「この世界の再生には仮面ライダーが必要だと信じて、

    どんな困難が待ち受けていようと、最後まで、地球のために闘ってきます」

 

(パンフレット内インタビューより抜粋)

 

 

 嬉しい。こんな素敵なことを想って、仮面ライダーになってくれた人がいることが。

 その人が演じた本郷猛が見られたことが、やっぱり、嬉しい。

 

 

 

 すみません、時間が掛かった割に全然まとまらない駄文になってしまい……

 しかも「ここが原作のあれだ!」とか「ここは石ノ森章太郎先生のあの作品のこれだ!」とか、そういう話も割愛しまして……(そちらはTwitter上で「ふせったー」などを通してやれればと思います……)

 

 

 

 

 最後に、庵野秀明監督をはじめとした、この作品を送り出してくれた全ての方々へ絶大の感謝を。

 

 ありがとう。

 これからも私はこう言いながら生きていけそうです。

 

 

「私は『仮面ライダー』が好きだっ!!」

 

 

 

 こんなところまで読んでいただきまして、どうもありがとうございました。