仮面ライダーギーツ×リバイス MOVIEバトルロワイヤル 備忘録 | Slipperの部屋

Slipperの部屋

『仮面ライダー』等の特撮ヒーローを愛好しております。気ままに書きますので不定期更新で失礼。

「一気に……いや、“一緒に”行くぜ」

「何があっても“ゲームクリア”は譲れない」

「俺もずっと願ってる……“戦いの無い世界”を」

パンフレット(DVD付)

(↑パンフレットDVD付)

 

特典Part2

(年明けからの特典……登場ライダーたちのカレンダー冊子……何故か6月まで)

 

 

 新年あけましておめでとうございます。

(今更ながら)

 当ブログ管理人のスリッパです。

 昨年は大変お世話になりました。今年もなんやかんやで好きなものについて書ければと思いますので、良ければ生暖かい眼でご賞味ください。

 

 時に、人間というのは、健康を損なうと心の余裕まで損なってしまうというもので。

 かくいう私も、12月23日の公開初日に体調が微妙なところで無理に映画館まで足を運んだものですから、自分の中で「私はちゃんと観ていたのか……?」と、パンフレットでキャストたちが語る想いを読んだ後すごく不安になってしまったり。

 

 今年の抱負は、とりあえず健康に過ごす、ということにいたしましょうか。

……『仮面ライダー』作品を真正面から受け止めてきちんと自分の中で咀嚼するために、という、相変わらず身勝手な考えではございますが。

 

 ちなみに、こちらが公開初日(12月23日)の私が書いた感想ツイートなどアレコレ。

 

 

 

 して、こちらが1月4日に観終えた私の感想ツイートで。

 

 

 

 温度差……。

 

 では、いかにしてこの温度差となったのか、いくつかパートで分けながら書きたいと思います。

 

 

※以下、映画本編および『仮面ライダー龍騎』シリーズのネタバレ等を含みます。ご視聴後の閲覧を強く推奨いたします。また、一部不快感を覚える文言があるかと思いますが、ご容赦ください。

 

 

 

 では。

 

 

『仮面ライダーギーツ×リバイス

MOVIEバトルロワイヤル』

脚本:高橋悠也、木下半太

監督:柴﨑貴行

 

 

 

 

ストーリー

 

 

 激しい戦いの日々を経て、五十嵐家の面々は平和に暮らしていた。

 一家の最新のニュースは、元太・幸実の夫婦に四人目の子どもが誕生したこと。

 幸四郎と名付けられた赤ちゃんを中心に、五十嵐家は新たな未来へ向かっていた。

 しかし、そんなある日、地球外生命体が時空の裂け目から襲来。

 ギフの力を手に入れるべく、五十嵐四兄妹に攻撃を仕掛けた。

 戦いの末、幸四郎が捕らわれ、そして長男・一輝は……!

 

 ――さらに、この事件の背後では、謎の存在が暗躍していた。

 デザイアグランプリに招集された、浮世英寿、桜井景和、鞍馬祢音、吾妻道長の四人。

 彼らを待っていたのは、いつもと様子の異なるツムリだった。

 今回のゲームは、生まれたばかりの悪魔をゴールまで運ぶ「悪魔マラソンゲーム」。

 それは、五十嵐幸四郎から生まれた悪魔だった。

 早速、出発した英寿ら四人を、謎の仮面ライダーたちが狙う……!

 

(以上、パンフレットより)

 

 

 

スリッパの備忘録

 

 

1:いと運命、願いと選定

 

 まずは夏にちょっぴり切なくて、しかし『仮面ライダー』史上でも例を見ないほどの爽やかなラストを迎えた『リバイス』……その後を描く第1部。

 

(↑一応、その最終回についての当ブログ記事はこちらから。参考までに)

 

 

 最初に気になったのは「四人目の子」

 次男が既に二十歳そこそこ、ともなれば。下手すると「孫の顔が~」とか言い出しても不思議はないところ。

 それがまさかのパパさんママさんの新しい子というのが、驚き。

 

 ただ、これに関しては自分の中で割と明確な答えのようなものが浮かんでおります。

 

 それは「白波純平とベイルの因縁」……つまり、「家族を狙う悪魔」という脅威の有無。

 

 TV本編で一輝が初めて内なる悪魔の力を借りたのは、父の悪魔=ベイルが《しあわせ湯》を襲撃した時。

 当時はさくらが生まれる少し前、つまり母親が妊婦だった。

 要約すれば、物理的に行動を制限されてしまう状態では、いざベイルに攻撃された際に子どもたちもパパさんも守れない、というママさんなりの考えがあったのではないかな、と。

 先の戦いを通してようやく「自分自身に掛けた呪い」から解放された五十嵐元太という人と、本当に気兼ねなく「家族みんなが幸せに生きていける」と、そうママさんが安心した証拠だったらいいな、という私の勝手な妄想です。

 

 しかし、そのベイルを生み出した《ギフの遺伝子》というのは、やはり呪いに等しい。

 

 突如現れた地球外生命体、イザンギ(CV:神谷浩史さん)とバリデロ(CV::堀川りょうさん)。

 かつてギフによって文明を滅ぼされたという彼らが、しかしそのギフの力を受け継いだ五十嵐家を狙って仕掛けてきたのは、やはり呪いと呼びたくなるところでしょう。

 あの超回復能力で、おそらく地球以外でも惑星を滅ぼしてきたのだろう怪物は、それだけ影響力があった。

 自分たちを滅ぼしてしまうほどの危険性は、逆に言えば「制御できれば最大の武器」だと。

 

 肉体を機械化して生き延びたのか、はたまた元からあの形なのか、とかく彼らはギフの力に対抗できるほどの戦力や技術を整えたうえで来た。

 ゆえに、そのギフを討ったライダー達にも引けを取らないし、バイスという最大の功労者がいない以上は勝ち目がない。

(一輝側の変身ギミックと「バイスがいた時の半分ほどの力しか出ない」というヒロミさんの発言から、おそらくリバイの能力補正を受け持っていたのだろうという個人的推測)

 

 結果として幸四郎は連れ去られ、一輝は死の淵に追いやられてしまった……。

 

 まさにパパさんの言う通り、「呪い」……。

 しかしママさんが言うには「家族の運命」と。

 

 何というか、やっぱり母は強し、というのが一貫してブレないのが『リバイス』らしいなと。

 

 呪いだろうが何だろうが、起こってしまった以上は、やはり受け入れるしかない。

 ある意味、家族で幸せに生きようとするなら、その代償が「ギフの遺伝子を狙われる」という事実。

 ただ、有難いことに今はそんな家族の味方として仲間たちがいる。

 一輝たち五十嵐家のライダーたちとの交流で、運命の分岐点を選ぶ権利を与えられた人たちが。

 

 

 しかし一輝、死の淵で自身の声と対話しながら、煉獄の中をさまようという描写。

 あれが《記憶を代償に戦った五十嵐一輝の走馬灯》と考えると、なかなか考えるところがあるかも。

 

 一輝がバイスと交わした契約は「力を借りる度に、家族についての記憶を忘れる(沈める)」というものだったと、私は解釈しています。

 要するに「自力で思い出すことができないよう厳重に蓋をする」という封印。

 死の間際ですら、その封印によって「過去を燃やしている」ように映っているのかなと。

 

 年を取ると「あれ何だっけ」と思い出せなくなることが増えていくものですが。

 時に、大事な相手との記憶が一切として出て来ないのは、やはり堪えるもの。

(今にして思うと、木下半太先生、本当はもっとヤバい代償を考えていたけど却下されて、結果的にこの部分に落ち着いたのかもしれない……などと邪推が発動していたのはここだけの秘密)

 

 最終的に一輝は「燃え続ける地獄のような道」と「柔らかな光に照らされた天国のような道」の二択を迫られます。

 つまり「苦しみながらでも戦って生きていく」か、「安らかに眠るように死ぬ」か。

 その選択。

 

 ここまでよく戦ったし、あの強敵に勝てる保証もないし。もういいんじゃないか、と。

 そんな内なる自身の声に促されて選んだ天国への道を、しかし彼は煉獄の方へと引き返します。

 なぜ、こんな苦しい選定に踏み込んだのか。

 

「家族を守る力が欲しい」

 

 彼の中で、この一点だけがどうしても譲れない。

 その願いが叶うなら、悪魔に魂を売ってもいいと、この手も差し出せると。

 

 おそらく、ここに今回の映画での《契約》を紐解く鍵がある。

 

 よくよく思い出してみれば「宿主が死ねば、その人間の悪魔も死ぬ」というのはギフの末裔たる彼らの共通ルールだったと思うので、一輝自身の「生きて家族を守りたい」という願いが、そのまま内なる悪魔の生存欲求とも合致したのでは。

 

 実際、まだ言葉を発することもできないほど幼い幸四郎も、自らを襲う危険に対して内なる悪魔の力が発動していますし、割と無視できない基礎として「悪魔だって生きたい」という生命体として当然の本能が働いているのかもしれない。

 

 悪魔の生存欲求と、人間の力を必要とする欲求。

 それらが互いの利益となるなら、契約は成立するはず。

 

 となれば、一輝がバイスの力を再び借りる為にも、そもそもバイスの存在自体をきちんとイメージとして思い出す必要がある。(ある意味『電王』の理論)

 ここで沈めてきた記憶を一時的に復活させる……つまりバイスが復活するというルートが出来上がった、という理屈で如何でしょうか?

(いえ、自分を納得させるために書いている話なので、「そんなんどーでもいい」という方には失敬ね)

 

 

 え、代償がないじゃないか?

 いえいえ、ここがミソです。

 

 一時的にでも一輝はバイスを思い出した。

 つまり自分の半身であり、とても大切な家族の存在を。

 それを再び失うという、考えるだけでも襲ってくる虚無感。

 もう一度、それこそ今度は完全に近い形で忘れてしまうかもしれない不安。

 その体感こそが代償の一つ。

 当然、この火事場の簡易契約は、長くは保てない。

 すぐにまた別れがやって来る。

 怖いですよね、せっかく再会できた大切な相手と、また別れるのって……。

 下手すると、永遠に思い出せないかもしれないのって……。

 

 

 でもね、それでも手を伸ばして戦うのが五十嵐一輝という人間なんでしょう。

 私はその「バカじゃないのか」と言われそうなところに、とても《仮面ライダーらしさ》を感じています。

 

 最初から完璧じゃない、むしろ不完全で、しかしそれが人間らしく。

 何より「家族の幸せ」というたった一つを願って、ボロボロでも立ち上がろうとする。

 それは、傷つきながらも己の信念を胸に戦った《仮面ライダー》というヒーロー性を強く体現しているなと。

(というか一輝役の前田拳太郎さん、そういう「ボロボロにされてもなお」という姿がとても様になっていると言いますか、そういうシーンがとても映えるのがとっても素敵だなと言いますか……)

 

 だからこそ、そんな彼の隣に、あの賑やかな悪魔が帰ってくると、ホッとしてしまう自分がいる。

 バイス、やっぱり良いなぁ。

 相も変わらず画面の向こうにいる観客に語り掛けながら、しかし今回は数の上では勝っているはずのライダー五人ですら倒せない強敵に一切として怯まない。

 

(あの……さらっと玉置豪くんが新規フォームもらっていて、私、驚いてしまったんですけれども……「ファイナルステージ観てないんだが、そこで披露とかしたの?」って感じで……置いてけぼりにされた感で初回の鑑賞時はすごく頭を抱えました……いや、別にいいんだけれども……「良かったね!」って感じなんだけれども……ジョージ・狩崎、もっと何か言ってあげて!「私が作った最新作にして最高傑作さ!」くらい言って!! 昔のライダー映画なら「ショッカーの新怪人だな!?」って異様に強調するとかあったんだから、そのくらい強調して!? また尺の都合なの、東映さん!?)

 

……失敬、取り乱しました。

 

 とにかく一輝とバイス、究極の二人が、《ギフの遺伝子》でドーピングした敵を討ち果たす必殺技&お決まりのカウントダウンは、懐かしさと同時に「一輝も楽しそうにしてる!」とちょっと面白い一面が見れたり?

 

 前回の夏映画での「モブを倒すばかりの新規フォーム」という私の不満点を、逆に「圧倒的に強い敵を、主役二人のエモい復活の勢いに乗せて蹴り飛ばす」という流れにしてくれたのは、正直に言えばとても有難かった……。

 ちなみに一輝兄、遂にライダーの面目躍如と言わんばかりにバイクで参上するの、とても良かったよ……別に「チャリで来た!」でも個人的には世界観が壊れないのでOKなのですが、やはり「バイクで助けに来た!」というのは《仮面ライダー》という作品を観てきた側として、大変に燃える……Very Good!

 

 

 と、まあ、一年間を追いかけたライダーなのでかなり贔屓をしているなと自分でも思うのですが……(苦笑)

 

 とりあえず『リバイス』のその後、バイスが押し売りのように「エモいでしょ!?」と叫ぶのを多少なり「うるさいよ(笑)」と思いつつも、お涙頂戴ではない爽やかな感じで楽しませてもらいました!

 

 Thank you! 『リバイス』!!

 

 

2:願望R:虚像の願った世界

 

 私、この映画二度目の鑑賞を前にして、『龍騎』の劇場版である『EPISODE FINAL』のディレクターズカット版を改めて観まして。

 

 

 

 控えめに言って最高。

 50年前に現れた『仮面ライダー』ではないかもしれないけれど、私にとって『仮面ライダー龍騎』のテーマを突き詰めた素晴らしい普遍の傑作。

 もちろん他人様に言わせれば、「こんなのが『仮面ライダー』だなんて認められない!」という話かもしれませんが。

 20年前に映画館に足を運んだ私に大きな衝撃を与え、20年が経った今の私にも深い味わいを残す一作。

 エポックメイキング的な作品だ、なんてのは20年前を振り返る制作陣から出た言葉のようですが。

 良くも悪くも、『仮面ライダー』シリーズの懐の深さを広げた一作であることは間違いない。

 

 つまり、そういう作品から呼び寄せられたはずの、この『MOVIEバトルロワイヤル』におけるレジェンド仮面ライダーな龍騎、ナイト、王蛇、そしてリュウガは、私には多少なりとも思い入れがある。

 

 だから言わせてください。

 

 

「どれだけ待遇が良いとしても、やって良い事と悪い事があるんじゃねぇですか!?」

 

 

 何をキレ散らかしているんだ、と思われるかもしれませんが。

 それなら是非とも、一度でいいからきちんと観て欲しい……『仮面ライダー龍騎』という作品を。

 

(今の『ギーツ』と見比べていただければ、おそらくこの「異質さ」に気付くとは思います……え、あんまり変わらない……マジ……?)

 

 全く知らない、という方の為に簡単にあらすじを。

 

 

 鏡の世界……《ミラーワールド》

 普通の人間には認識できないその世界では、人知れず戦い殺し合う者たちがいた。

 彼らは互いを《仮面契約者(ライダー)》と呼び、最後の一人になるまで戦い合う。

 その理由は、主催者の放つ言葉ゆえ。

 

「戦え……最後の一人になるまで」

「生き残った者は、どんな望みも叶えられる」

 

 時に大切な誰かの為に、時に自分自身の望みの為、時に戦いの快楽に溺れたが為。

 ミラーワールドの怪物=ミラーモンスターと契約した仮面の戦士たちは死闘を演じていた。

 

 そんな中、ひょんなことからライダーになってしまった青年=城戸真司(演:須賀貴匡さん)。

 彼が戦うのは、他のライダーたちとは少し違う理由。

 鏡の世界に生きるミラーモンスターによる捕食から、無関係な人たちを守る為。

 そして、ライダー同士が傷つけあい殺し合う、この狂った願いの渦巻く戦いを止める為。

 

 果たして、ミラーワールドとは何か。このゲームの主催者=神崎士郎の思惑は何か。

 願いを賭けて命を散らすライダー同士の戦いに、終わりは来るのか。

 

《戦わなければ生き残れない》

 

 

 

 こんなところでございましょうか。

 

 いえ、察してはいるのです……このご時世に、この「異質さ」を、そのまま送り出せないと。

 時代に合わせようとすればするほど、どうしてもこの手法にするしかなかったと。

 

 同時に、私自身があまり『仮面ライダーギーツ』という最新作に、期待感を持てずにいることもあって、なかなか苦しい。

 いえ、正直に言えば「第二話の時点で、既に《生き残りゲーム》と呼ぶには参加者のドラマが弱すぎる……」という勝手な意見があります。

 ここは『ギーツ』という作品が大好きな方々には申し訳がないのですが……逆に「大金を出して手術すればどうにかなる」というレベルの病なら、ちゃんと説明して欲しくない?

 無論「息子が病気にならなかった世界にしたい」は理解できるけど、「手術に莫大な金が……」とか一言くらい添えてくれても良いんじゃないかしら……

 いえ、「最後の最後にどんでん返し! どうだ、化かされたか?」とドヤ顔をしてたのかもしれないけれど……それは単に情報の提示不足となりませんかしら……?

 だってあの父親が「息子の事を想って、こんな意味不明なゲームに参加するほど追い詰められている」という描写があともう一歩、せめて半歩ほどあったなら全然違うじゃん……と。

 

※個人の意見です。ただ「何言ってんだコイツ?」と思われた方は、是非とも『ギーツ』の第2話をご覧になって、できればあの仮面ライダーギンペン=平孝人(演:長谷川朝晴さん)のセリフを書き起こしてみてください……私の書いたイライラが理解できるかもしれません。

 

 

 

《願いを叶えるために命を賭す生き残りゲーム》

 

 言葉にすればカッコいいかもしれませんが、実際にそんな嘘100%に縋る人物像というのは、ある程度の「切迫感」があってほしいなと思う自分がいます。

 

 例えば今回の映画にも登場したライダー=ナイト。

 彼は「意識不明になった恋人を助ける為」という理由でライダーバトルに参加した、寡黙な男。

 恋人の状態を考えると、予断を許さない、いつ帰らぬ人になるか知れないという切迫感がある。

 だから、彼女の容態が悪化した時には「俺と戦え……戦え!」とまるで鬼のように変わる。

 それこそ必要に応じて共闘もしてきたライダーとも、独りで戦うには無謀だと思われたライダーとも、ボロボロで今にも倒れそうでも、戦おうとする。

 でも、それしか彼女を救う可能性が見つからないからこそ、彼は揺らがない。

 

 嫌な言い方をします。私はその切迫した人間の熱が、狂おしいほど好きです。

 ある意味では「人の不幸を愉しむ」という、道徳的には悪いものにも見えるかもしれない。

 ただ、フィクションだからこそ描ける極限に近い「人間味」というのも、この『龍騎』の面白さだと私は思っていて。

 

 だからこそ、私は『龍騎』系ライダーの参戦を知った時、とても怖かった。

 この切迫感や狂ったような熱量が、もしなかったら。

 それはもう『龍騎』本来のキャストが演じようが演じまいが、もう自分の好きな『龍騎』の世界じゃないと。

 

 そういう意味で言えば、今回の仮面ライダーリュウガだけが、解像度の低さが目立ったライダーでした。

 

 先の仮面ライダーナイト=秋山蓮(演:松田悟志さん)は、元来の寡黙さもあって「何か理由があって戦っている」のはわかるけれど、その理由が物語に関わってきそうだと期待が持てる。

 仮面ライダー王蛇=浅倉威(萩野崇さん)は、『龍騎』はあまり見たことのない人でも、もはや言わずと知れた「ヤベー奴」……だから、ただ危険な笑みを浮かべて「戦わせろ!」と叫んで暴れているだけで見応えがある。

 

 でも、仮面ライダーリュウガ……「鏡の世界」からやって来た城戸真司は。

 

「悪の、悪による、悪の為のゲーム……か」

 

 じゃねえよ。お前、自分の事を《悪》だと本気で思っていたのか? だとしたらマトモが過ぎる。

 

 すっごい嫌な言い方をすれば、あの劇場版で魅せてくれた「不気味さ」が、この映画の彼には、ない。

 悪魔マラソンゲームだの、スシローさんでの戦闘シーンだのと言った「今の子どもたちの身近にある場所でライダーが戦っているんだよ」と監督が言う、そのシリアスとコメディがぐちゃぐちゃに混ぜられた《ぬるま湯》に、嫌と言うほど削られてしまった。

(もちろん試み自体は悪くないと思います……「ライダーが僕の近くにもいるかも!」と子どもが想像力豊かに楽しめるのは良い事ですから……ただ、そこに彼らを使うのは私にはどうにもミスマッチに思えてならなかった……というだけの話です、はい……)

 

 

 おまけに「願いを書いてね」ってカードに書かれた彼の願う世界……。

 

「鏡の外が滅亡した世界」

 

 だそうです。

 言わせてください。

 

「雑ッ!?」

 

 これで良いのか、東映さん。仮にも《平成ライダー》シリーズでも爆発的に売れた作品の、主役と対を為す最強のライダーに、この仕打ちか!?

 

 いやいや、待て待て。キレ散らかす前に、もう一度だけ考えろ、自分。深読みするんだ。

 そう、どうして彼がこの願いを書いたのか。

 

 ではいきます、私の深読み。

 

 あの仮面ライダーリュウガ=「鏡の世界」から来た城戸真司は、作中では一種の最終破壊装置、とでも言うべき立ち位置でした。

 本来、「鏡の世界」で戦い合うのが『龍騎』のライダーたちの基本。

 別に現実世界で変身できないとか行動や能力に制約があるとかではありませんが、主戦場が「鏡の世界」で。

 現実世界に生きる者は長時間そこに滞在することができず、制限時間を過ぎてしまうと消滅してしまうという恐ろしい世界でもある。

 しかし、この「鏡の世界」の城戸真司は、バカがつくほどお人好しな城戸真司本人とは対照的な狡猾さで行動しますが、逆に現実世界での活動に制限時間がある。

 そして、「鏡の世界の住人であること」、つまり「所詮は虚像でしかないこと」にコンプレックスを抱き、現実に確固たる存在を持つ城戸真司と融合することで「最強のライダー」になることを目指しました。

 

 そう、城戸真司の肉体さえあれば、ミラーワールドでも現実世界でも、自由にライダーになって制限時間なしでその力を振るうことができる。

 

 そういう存在だったわけです。

 

 だから、この裏真司とでも言うべき仮面ライダーリュウガが願う世界が、言葉通りのそれならば。

 間違いなく、本物の真司が一番に嫌う絶望の世界でしょう。

 

 つまり、あのカードに書いた願いというのは……「取り込むことに成功した本物に対する嫌がらせ」。

 虚像でしかなかった彼の、城戸真司本人への、最大限の悪意を込めた拷問。

 

 そう解釈すると、まあ、それなりに納得できる……かも?

 

※あくまで「それなりに」です。ハッキリ言えば「脚本家の高橋悠也先生、もしかしてリュウガ嫌いですか?」と血管がブチ切れそうになりながら訊きたかった自分もいます。頼むよ、東映さん……ただでさえセクハラ問題とかで私の中での信用がどんどん下落しているのに……せめて「きちんと調査した結果、こうこうこうでした」とか発表してくれ……訴えた側に問題があるとか水掛け論になりそうだから嫌だって言うなら、もう少し愛情と誠意を見せてくれ……登場人物の掘り下げにも、現実に働く御社の社員さんたちにも……頼むよ……「次の戦隊、カッコいいよね!」って素直に言わせてくれよ……

 

 

 また暴走しました……失敬。

 

 虚像と言えば、この映画限定の敵ライダー……仮面ライダーシーカー=轟戒真(演:大貫勇輔さん)も、虚ろなダークライダーという面がありましたね。

 

 今回の黒幕、元デザイアグランプリのゲームマスター=コラス(演:池田鉄洋さん)曰く。

 

「私のデザイアロワイヤルで連戦を続けた男だ!!」

 

 とのこと。

 つまり、仮面ライダーギーツ=浮世英寿(演:簡秀吉さん)とは別の《デザ神》……無敗神話の男。

 

 でね、私どうしても初見時に理解できなかったんですよ。

 

「デザイアロワイヤルって、デザイアグランプリが消えたから生まれたものでは……? それの連戦連勝って、何……??」

 

 はい、体調不良気味でややこしい映画を観に行くものじゃありません。

 答えは簡単、《デザイアロワイヤル》は以前から存在していた、と言うだけの話。

 

 年内最後の『ギーツ』放送回で説明された通りなら、《デザイアグランプリ》とは「リアリティショー」……つまり、スポンサーたちが興じるエンタメ……らしいです。

 ジャマトの存在がどうあれ、とりあえず演者たちにはドッキリショーのようなもの、でしょうか。

 

(個人的に、ここも苦手ポイントかもしれない……いや一番の苦手ポイントは「命をホイホイ蘇らせることを可能にしているシステムが存在する事」ですが……君ら『ドラゴンボール』の見過ぎでは? あれ、あのマンガの世界観構築だからこそできるシステムでしょ……なぜそれを無理に『仮面ライダー』に嵌めようとするのか……それも多様性? では、もう少し世界観を寄せて欲しいというか……いえ、これ以上は完結していない作品に対して無粋ですね……黙ります)

 

 

 失敬。

 

 とりあえず、仮面ライダーシーカーは「別の企画番組における絶対王者」。

 しかし、その報酬として叶う理想の世界は、「父が独裁者となっている世界」……つまり、全て父親に決められたものを実行しているだけ。

 おまけにその父親からは「上の兄妹たちはうまくやっているのに、アレは努力を怠った」「汚れ仕事を任せておけばいい」と陰で言われている。

 

 何より、本人が空虚。

 ただ「力で頂点に立つ」以外のことを何も考えていない……いや、「考えないようにしている」のか。

 それを象徴するように使う装備は巨大な剣やハンマー、ガトリングなど凶悪。

 ゲームマスター=コラスから与えられた《ギフの遺伝子》を持つ悪魔の力を取り込み、ドーピングに成功したのもあって、ただ力でねじ伏せるのみ……。

 

 また、コラスから「空の裂け目を閉じないようにする《破滅の門》建設」を命じられて実行しているのも「権力者の掌で踊り続けている、虚像の王者」という感じも。

 

 尺さえあればもっと印象に残る良いキャラだったろうに……!

 いや、あのくらいで良いのか? 私はどうもその辺の塩梅がわからないのがツラいところで。

 

 

 ただ、間違いなく言えるのは、この虚像のライダーたちが望む世界は、叶わないってことでしょうか。

 

 正義の仮面ライダーがいるから?

 

 いやいや、《仮面ライダー》は正義ではなく《自由》の為に戦うヒーローですぜ?

 

 己の身勝手な願いを叶えようとするエゴイストな《仮面ライダー》は、もっと熱いのでは?

 

 

 

 

3:身勝手

 

 本当に身勝手な話なのですが。

 私にとってこの映画のハイライトはたぶん「ギロリさんの斬り合い」シーン。

 

 ぶっちゃけることこの上ないのですが、テレビ本編で「あの……それで大丈夫ですか……?」と首を傾げる相手がギロリさんだったのですが、どうしてもこの映画での彼は好き。

 

 ただ、テレビ本編での終わり方とこの映画での発言などを総合して、私が彼に興味を惹かれた理由、その答えに辿り着けた気がします。

(無論、ゲームマスター同士で異形の仮面に日本刀での斬り合いという構図自体も、非常に面白いと感じましたが!)

 

 極論、「ギロリさんがデザイアグランプリを愛しているから」

 

 この映画の公開初日に聞いた「デザイアグランプリの勝者は世界を救った英雄」ということをビシバシ叫ぶのを聞いていて、実はちょっと辟易していたんです。

 

「いい加減にやめろよソレ……何でライダーを無理に『世界を救った英雄』なんて仰々しい肩書に押し込めようとするんだ……ひっそりと救った男で良いじゃない……」

 

 マジでこのくらい思っていました。

 実際、今でも「手前の身勝手な願いを叶えてくれる可能性があるから参加しました」という輩を大仰に祭り上げるその言葉の使い方が気に入らないというのは本当です。

 

 ただ、ギロリという人物は、このゲームに対して愛が深い……いや、深すぎる。もはや、信仰と呼べるほど深かったのではないかと、今更ながらに感じているところで。

 

 

 というのも、ギーツを退場させたがった理由が、そもそも「ゲーム運営側を暴こうとするなんて……危険だ」という旨のことを言っていたと記憶しています。

 

 仮に、浮世英寿が求めてやまない母親が、実はこの物理法則を軽々しく無視するシステムの根幹にあって、それこそ生体ユニットとして用いられていて、彼女がいなくなるとジャマーエリアが際限なく広がるとか、そんな感じの重めのデメリットがあったとして。

 

 それを知っていようがいまいが、とかく、この《デザイアグランプリ》という「勝てば本当に願いが叶うゲーム」を、上手く進行したい気持ち自体はすごく感じるところ。

 

 だからテレビ本編では「ギーツが邪魔だ!」と、ゲームマスターとしての規則に反しようとも彼の脱落に力を入れていたわけでしょう。

(とりあえず私はそう解釈してますって話)

 

 

 だから、コラスという「別ゲームの主催者になったはずの相手が、この崇高な役割を力づくで乗っ取った」というのは許しがたい蛮行。

 しかも目的は、世界の破滅を防ぐという《デザイアグランプリ》のその理念に反する。

(たとえ名目上だけだったとしても)

 だからこその。

 

「勘違いするなよ」

 

 

 身勝手な信仰だが、そこに「このゲームを心から愛する心」は感じる。

 いっそ「たとえ矛盾があるとしても、このゲームで救われる命があるのは事実だ」とか言ってたか。

 うん、そういうところからギーツに揺さぶりをかけていってほしかった気持ちがある。

……いや、あの狐くんは飄々と躱してしまうのか。わからんけども……。

 

 

 

 その浮世英寿こと仮面ライダーギーツ。

 幸四郎の悪魔を取り戻すために行動を共にする一輝とバイスを観察しながら、二人がまた離れて、おまけに記憶も残らないかもしれないというのを聞いた時の表情は良かった。

 いや本当に。これまでの彼が活躍した中で一番のハイライトだったかもしれない。

 そう、「お人好しのバカ」でも「日本一のお節介」でもないけれど、あなたも優しさを棄てられないのよね。

(もちろん、本編2話の多額の寄付が、私には「脱落者に対する、せめてもの餞」と捉えるしかないのだけれど……病気が治るのは間違いなく良い事だけど、父親がいなくなる哀しみは癒せないからね……)

 

 

 それがシーカーとの決戦を終えて、一輝が《デザ神》の座を辞退した時に選ぶ理想の世界に、「予定調和だな」と初見時には少し思っていたけれど、でも一番に納得できる「クロスオーバーの在り方」だなとも思いました。

 

「五十嵐一輝が戦いの記憶を忘れない世界」

 

 原作の石ノ森章太郎先生が『人造人間キカイダー』で描いた衝撃のラスト、その結末に対する別のアンサーとして加えられた『イナズマン』での一幕を思い出すような、そんな終わり方。

(え、わかりづらい? うーん、と……「メリーバッドエンドを辿ったヒーローが、同じ作者の別作品に登場して、こういうハッピーエンドもある、と言ってもらった」……みたいな?)

 

 

 

 

 バイスの実体化を維持するどころか、その記憶まで完全になくしてしまうのが、おそらく契約の代償だったはず。

 しかし、世界のルールそのものが書き換わった結果、五十嵐一輝の「戦いに関する記憶」は固定されている。

 沈まないように楔が打ち込まれた、と。

 

 私個人はこの『ギーツ』の「願いが叶う」というシステムに対して好印象は持っていませんが。

 ただ、こういう使い方ができるのは悪くない。

 爽やかだけど、ちょっぴり切ないお別れは必ず来るとして。

 笑ってその話ができる、というのは、この映画の序盤で「バイスってやつのこと、全然おぼえてないし」と寂しそうにしていた五十嵐一輝に対する完璧なアンサーだなと。

 

 最後に二人で「スシロー」しているシーンには、「バトルに使わないでこういうところで宣伝しても良かったんでは……」と少し思いましたが。

 ただ、「毎日うまい寿司が食べられる世界」というのを冗談半分に口にするのは、割と好き。

 

 

 また、何よりレジェンド枠の仮面ライダー龍騎=城戸真司。

 今回の物語開始より前に「ミラーワールドに取り込まれた」という理由でリュウガと一体化していたことが後に明かされますが。

 やはり彼を助けるのがナイト=秋山蓮というのが「エモい」の押し売りではあっても、やはり悪い気はしません。

 この二人の間にある歪なようで純粋な友情は、やはり存在する。

 

「俺も戦う。自分の世界を取り戻すために」

 

 龍騎=城戸真司が言うと、やはり違った重みがあります。

 もちろん彼の場合、自分のネガとも言える裏真司に乗っ取られた間に無茶苦茶な世界を願われているわけで。

 それを止めようとするのは、やはり彼らしい。

 

 ちなみに龍騎、ライダー同士の戦いを嫌っただけあって、鏡像の自分であるリュウガ以外にはファイナルベント(必殺技)を使ったことがないとか。

 ミラーモンスターにはかなりの頻度で使うので忘れがちですが、彼はやはり「人を守るためにライダーになった男」なんですよね。

 

 だからこの映画でも、リュウガを止めるためだけにファイナルベントを使う。

 

 ナイトのファイナルベントを受けた後だったこともあって、疲弊したリュウガはやられるがままだったのが、少し残念ですが……。

 いや、あの流れなら互いのキックをぶつけるも良し、思わぬ分離の隙を突かれる形でリュウガがやられる流れもまた良し。

 

 

 また、一瞬でも共闘した(?)仮面ライダータイクーン=桜井景和に語り掛けるのは、なかなかニクいシーン。

 

「俺もずっと願ってる……“戦いの無い世界”を」

 

 ここだけは、エモいの押し売りじゃない、本当に「心が震える」と思えたエモいシーンでした。

 いや、バイスが復活した時も嫌な気持ちだったわけじゃないし、他のカッコいいシーンもちゃんとあるんだけどさ……違うんすよ。

 

 一年間『仮面ライダー』シリーズの主役を張った人が、後輩に「今のそのキャラだからこそ伝えることができる言葉」ってあるじゃない。

 

 もちろん、城戸真司っていう「お人好しのバカ」って呼ばれがちな彼がブレたわけじゃない。

 むしろ、あのミラーワールドで戦う13人のライダーの中で、ある意味では一番「自分の気持ちに向き合い続けた」と言えるキャラクターだからこそ。

 

 20年という時間が過ぎた今、それを言ってくれるのが良い。

 

 その直後に蓮が「随分とエラそうなことを」なんて、あの頃のままの感じで言うのも、良いよね。

 いつまで続くか知れない戦いに、「俺が終わらせるまでだよ!」と答えるのも、やはり城戸真司。

 ここだけは、本当に「当時のキャストさんが来てくれて良かったな」って本気で言いたくなる。

 不変で普遍な面白さがある『龍騎』だけど、やっぱりこの二人の間にある友情は特別だ。

 いがみ合って、背を向け合って歩き出す。

 そのくせ、どっちも何だか笑っている。

 

 こういうのが、良いんだよな……。

 絆だって叫ぶのも大事かもしれないけどさ、言葉にならなかったり敢えてしなかったりする、腐れ縁と言っても良いくらいの悪口っぽい応酬さえ、二人だからこそ。

 

 

 文句というか愚痴というか、言いたいことは本当はまだある気もするけれど……

 ただ、間違いなく二度目の鑑賞を終えた今なら言えます。

 

「悪くない……いや、良い映画だった!」

 

 

 

 大変うるさくして失礼いたしました。

 気付いたら日付が変わっていますので、本日はここでお開きとさせていただきます。

 こんなところまで読んでいただき、どうもありがとうございました。