〈諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆〉・・・他責ではなく、自戒を込めて「本の森」。
私事ながら、地元の、例の新アリーナ(を含む多目的屋内施設、を含む豊橋公園東側エリア整備・運営事業)の件で、このところ[X]でのポストを多めにしてるのだけれども(と言っても、1日1本か2本なんだけど)・・・
幸か不幸か、反対派に「認知」されてしまったらしく、時折、しょうもない絡み返信がきたりして、色々面倒くさいです。
某党シンパによる個別攻撃的アンチ活動とは比べるべくもない、片手で数えられる程度のものではありますが・・・
こちらとしては、別に反対派を説得しようとか折伏してやろうとか考えてないから(どうせ、反対のための反対してるんだし)、そっとしといておくれよ、って感じでしょうか。
●疑似、逃避行
そんなわけで、ちょっと、いや、けっこう思うところアリ。
「本の森」へ逃避行でございます。
知らない人はいないでしょ、というくらい有名な本で「古典」に入れる人もいるかもしれません。
とはいえ1930年刊行。それほど古いわけでもない、とも言えます。
〈二〇世紀の初頭、《大衆》という現象の出現とその功罪を論じながら、自ら進んで困難に立ち向かう《真の貴族》という概念を対置した警世の書〉
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』です。

1930年刊行の大衆社会論の嚆矢。20世紀は、「何世紀にもわたる不断の発展の末に現われたものでありながら、一つの出発点、一つの夜明け、一つの発端、一つの揺籃期であるかのように見える時代」、過去の模範や規範から断絶した時代。こうして、「生の増大」と「時代の高さ」のなかから『大衆』が誕生する。諸権利を主張するばかりで、自らにたのむところ少なく、しかも凡庸たることの権利までも要求する大衆。オルテガはこの『大衆』に『真の貴族』を対置する。「生・理性」の哲学によってみちびかれた、予言と警世の書。
ここでは、全15章のうち・・・
「六 大衆人解剖の第一段階」「七 高貴な生と凡俗な生⎯⎯あるいは、努力と怠惰」および「八 大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的に干渉するのか」
・・・から引用。私の、今の気持ちを代弁していただきましょう。
もちろん「何かにつけて反対する人、全てがそうだ」という話ではないので、そこは誤解のないようお願いします。
●「大衆人解剖の第一段階」
なぜならば、普通人は、技術的・社会的にかくも完全な世界をまのあたりにした時、それは自然が生み出したものであると考え、それらを創造した優れた人々の天才的な努力にはけっして思いいたらないのが事実だからである。いわんや彼らが、こうしたいっさいの便宜が、今日でも人間のきわめて稀有な能力に支えられているものであり、その能力が少しでも欠如すれば、この壮麗な構築物もたちまちのうちに瓦解してしまうであろうという考え方を認めるのはなおさら不可能である。(P.080)
世の中完全ではないし、瑕疵のない手続きもない。なのに「もはやない過去」を理由に、簡単に「白紙に戻せ」とか「解除します」とか言う。
多くの人が時間と労力を注いで日の目を見た「計画」や「契約」を何だと思っているのだろう。
つまり、彼らの最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。彼らは、文明の利点の中に、非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持しうる奇跡的な発明と構築とを見てとらないのだから、自分たちの役割は、それらを、あたかも生得的な権利ででもあるかのごとく、断固として要求することのみにあると信じるのである。(P.082)
いろんなことに挑戦すれば、そりゃ失敗もするさ、にんげんだもの。なのに「いまだない未来」を理由に、未来を変え得る「冒険」なり「挑戦」なりを否定する。
けれど、少しくらいの背伸びをする勇気がなければ現状維持だってできない、というのは真実。
硬いディフェンスはもちろん必要だけれど、そこから変幻自在なオフェンスがなければ、勝てるはずもない。
●「高貴な生と凡俗な生⎯⎯あるいは、努力と怠惰」
かくしてわれわれは、かつてのいかなる時代の大衆よりも強力な大衆、しかし、従来の大衆とは異なり、自己の中に完全に閉じこもってしまい、自分は自足しうると信じ込み、何物にも、また誰にも関心を払いえない⎯⎯要するに、手に負えない⎯⎯大衆人に出会うこととなったのである。(P.093)
色々言ってくるけど、もとより「許容」も「共有」も「共感」もする気がない。
こちらには関心がないくせに、自分にはかまってほしい、のだろう。そういうの、たまらなく面倒くさい。
しかし、こうした改心すらも長続きはしないであろう。なぜならば、大衆の魂の基本構造は自己閉塞性と不従順さからなっているのである。大衆には、生まれながらにして、それが事象であろうと人間であろうと、とにかく彼らの彼方にあるものに注目するという機能が欠けているのである。(P.093)
ホント、「閉じてる」なあと思います。
●「大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的にのみ干渉するのか」
わたしは、この本を読まれる読者の多くが、わたしのようには考えないことを承知している。それは当然のことであるばかりでなく、かえって逆にわたしの主張を裏づけてくれさえするのである。というのは、たとえわたしの意見が結果的には誤りであったとしても、わたしと意見を異にする読者の多くが、かくも錯綜せる問題をものの五分も考えてみたことがないという事実だけは否定しえないであろうからである。だとすれば、そうした人々がわたしと同じように考えないのは当然ではなかろうか。(P.096)
「かくも錯綜せる問題をものの五分も考えてみたことがない」、反対する人の言うことは、まさにソレ! 何処かで誰かが言ってることがほとんど。
そうした人々は、一つの意見をしっかりと造り上げるだけの努力をせずに、この問題に関する意見をもつ権利を有していると信じ込むことによって、わたしが「反逆する大衆」と呼んだあの人間としてのばかげたあり方に自分が属している、という典型的な例を示しているのである。(P.096~097)
他人のポストにはちょくちょく絡むくせに、自らのタイムラインで自らの考えを披露することは少なく、リポストで埋めるばかり。
これこそ、まさに、閉塞的・封鎖的な魂をもっているということに他ならない。この場合には知的閉塞性ということができよう。こうした人間は、まず自分の中にいくばくかの思想を見出す。そして、それらの思想に満足し、自分を知的に完全なものとみなすことに決めてしまう。彼は、自分の外にあるものになんらの必要性も感じないのであるから、自分の思想の限られたレパートリーの中に政治的に住みついてしまうことになる。(P.097)
個別の現実に反対するより先に、豊かさを忌避する、繁栄を憎む、そのための公共事業・投資自体に反対するという思想(姿勢、癖)が、彼らにはあるのだろうと思う。
反対する対象が、今、たまたま新アリーナ、を含む多目的屋内施設、を含む豊橋公園東側エリア整備・運営事業だというに過ぎないのだ。
つまり、われわれはここで、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものにつきあたるのである。賢者は、自分が常に愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのであり、そしてその努力にこそ英知があるのである。これに反して愚者は、自分を疑うということをしない。つまり自分はきわめて分別に富んだ人間だと考えているわけで、そこに、愚者が自らの愚かさの中に安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられる理由がある。(P.098)
彼らは、自らの責任において何者かになろうという努力をしない。
その怠惰を「足るを知る」「身の丈に合った暮らし」と言い換え、そのぬるま湯に安住している、ように見える。
大衆人は、偶然が彼の中に堆積したきまり文句や偏見や思想の切れ端もしくはまったく内容のない言葉などの在庫品をそっくりそのまま永遠に神聖化してしまい、単純素朴だからとでも考えないかぎり理解しえない大胆さで、あらゆるところで人にそれを押しつけることであろう。(P.099)
彼ら自身がそうであっても一向にかまわないのだけれども、それを他の人にまで「かくあれ」と強いるのが正しいと勘違いしている、っぽいところが厄介なのだ。
彼らにとってはもはや傾聴すべき時は過ぎたのであり、今や判定し、裁定し、決定する時なのである。大衆人が、彼ら本来の視覚も聴覚ももたぬ姿で介入してきて、かれらの「意見」を強制しない問題は社会的な生の分野にはもはや一つもなくなっているのである。(P.100~101)
おそらくは、私にだけではなく、此度計画にだけでなく、何にでも「とにかく反対」「反対のための反対」をやっているのだろう。
文明とは、何よりもまず、共存への意志である。人間は自分以外の人に対して意を用いない度合いに従って、それだけ未開であり、野蛮であるのだ。(P.106~107)
未開であり、野蛮である。
おっと、イカンイカン。
他責ではなく自戒するんだった。
最後に『大衆の反逆』末尾の結論めいたところを引いておきましょう。
●「世界を支配しているのは誰か」
今日社会的な面でも私的な面でも⎯⎯最も個人的な面においてさえ⎯⎯行われているすべてのことは、二、三の科学のそのまた二、三の部門を除いては、全部暫定的なことである。今日推賞され、誇示され、試みられ、賞賛されているいっさいのことを信じない人がいたら、その人は当をえているといえるだろう。それらすべては、あっという間に消え去ってしまうだろうからである。(P.259)
●「真の問題は何か」
したがって、今日の人間に対してそのモラルの欠如を難詰するのはあまりにも無邪気な行為というべきであろう。今日の人間には非難は通じないばかりか、むしろ彼らをほくそえませることになるだろう。非道徳な行為は安直の極に達してしまい、今や誰でもがこれみよがしに非道徳な行為をする時代になったのである。(P.271~272)
事実関係の間違いは、もちろん指摘しなければならないけれども・・・
ただ突っかかってきてるだけのものは、完全スルーが正解だろうと、近頃ようやく、その域に達しました。
何しろ、大抵は「かまってちゃん」でしかないんだから。
おっと、また他責してしまった。
我ながら、修行が足りませんな。
それでは、最後に目次を。
第一部 大衆の反逆
一 充満の事実
二 歴史的水準の向上
三 時代の高さ
四 生の増大
五 一つの統計的事実
六 大衆人解剖の第一段階
七 高貴な生と凡俗な生⎯⎯あるいは、努力と怠惰
八 大衆はなぜすべてのことに干渉するのか、しかも彼らはなぜ暴力的に干渉するのか
九 原始性と技術
一〇 原始性と歴史
一一 「慢心しきったお坊ちゃん」の時代
一二 「専門主義」の野蛮生
一三 最大の危険物=国家
第二部 世界を支配しているのは誰か
一四 世界を支配しているのは誰か
一五 真の問題は何か
あとがき
「ちくま学芸文庫」版あとがき
訳者解説


おまけのコーナーは、長坂氏に捧げます。
●「『慢心しきったお坊ちゃん』の時代」
人間の生がとりうる最も矛盾した形態は「慢心しきったお坊ちゃん」という形である。だからこそ、そうしたタイプの人間が時代の支配的人間像になった時には、警鐘をならし、生が衰退の危機に瀕していること、つまり、死の一歩手前にあることを知らなければならないのである。(P.143)
ところで、「慢心しきったお坊ちゃん」は、ある種のことは不可能だと「知り」ながら、そして、知っているからこそ、その反対の確信をもっているかのごとき言動をするのである。(P.146)
不まじめと「冗談」、これが大衆人の生の主音調なのである。彼らが何かをやる場合は、「良家の御曹司」がいたずらをするのと同じように、自分の行為は取り消すことができないのだという真剣さに欠けている。あらゆる面において、努めて悲劇的で、せっぱつまった、決然とした態度をとっているかに見えるのは、単にうわべだけのことなのだ。彼らは、この文明世界に真の悲劇などありえないと信じているからこそ、悲劇をもてあそんでいるのである。(P.147)
オシマイ。
未読の方は、前回記事もどうぞ。
「それって、個人の感想でしょ」と言う人もいるでしょうけれども、もう、ぶっちゃけちゃいます。