先ほど新型コロナ対策本部を開催し、緊急事態宣言の対象地域に愛知県、福岡県を追加するとともに、5月31日まで延長することを決定いたしました。また、まん延防止等重点措置について、北海道、岐阜県、三重県を追加し5月31日まで延長すること、また、宮城県については5月11日に終了することを決定いたしました。
5月7日の首相記者会見、冒頭(掴み?)ですが、正直、面白くも何ともない。「あー、そうですか」くらいのもんです。
で、種々諸々、わかったようなそうでないような、“ウィズ”なのか“ゼロ”なのか、方向性の見えない話が続いて、末尾(締め?)はこんな感じ。
また緊急事態宣言の延長かと失望される方も多いかと思います。しかし、私たちは必ず近い将来、この局面を乗り越えていきます。国民の皆さんに安心できる日々を取り戻していただくために、ワクチン接種の加速化を実行すること、そして、それまでの間に感染拡大を何としても食い止めること、この2つの作戦に、私自身、先頭に立って取り組んでまいります。政府はもとより、医療、介護従事者、地方自治体を始め、関係する皆さんの力を結集し、一日も早く安心を取り戻すために全力を尽くしてまいります。国民の皆さんの御理解と御協力を心からお願い申し上げます。
でもって質疑応答。宣言解除の基準について尾身さんは、こんなことを。
解除の方のことについて、私の方から。
ステージ3に入って、しかもステージ2の方に安定的な下降傾向が認められるということが非常に重要。それからもう一つは、感染者の数も重要ですけれども、解除に当たっては医療状況のひっ迫というものが改善されているということが重要だと思います。
それから、今回は明らかに変異株の影響というのが前回に比べて極めて重要な要素になっていますので、今回は、いずれ解除するときには、今まで以上に慎重にやる必要があると思います。
ステージ4=緊急事態という話じゃなかったんですか? 医療逼迫が云々は、だから、キャパを増やしてくださいよ、です。
何しろ、感染者数も死亡者数も、諸外国と同じ目盛りで見れば(!)、超低空飛行なんですから。
コロナ=RNAウイルスだけに、もともと予想できたはずの変異株を言い訳にするのも、どうかなと思いますしね。
とにかく・・・
刺さらない、届かない、いっそ、どうでもいい。
くらいの・・・
理解もできなきゃ、協力する気にもなれない。
そんな首相記者会見でした。
効果がない、少なくともはっきりしない路線をいくら頑張ってみても、そりゃやっぱり効果はないでしょ。
と、ここまでが、長いマクラでして。
ところで、映画では、ジョージ・オーウェル『動物農場』の執筆風景が、モノローグとともに何度か挿入されてます。
この一節は、その締め。
“その外見は豚から人 人から豚に変わり―”
“再び豚から人へ”
“もはやどちらとも区別できない”
拙ブログ、前回記事(テーマ「映画の森」)の末尾です。
そんなわけで、今回はソレ繋がり。テーマ「本の森」です。
『動物農場』ジョージ・オーウェル 高畠文夫訳 角川文庫
『1984年』と同様、タイトルはもちろん、中身をご存知の方も多いことでしょう。
人間たちにいいようにされている農場の動物たちが反乱を起こした。老豚をリーダーにした動物たちは、人間を追放し、「すべての動物が平等な」理想社会を建設する。しかし、指導者となった豚たちは権力をほしいままにし、動物たちは前よりもひどい生活にくるしむことになる……。ロシア革命を風刺し、社会主義的ファシズムを痛撃する20世紀のイソップ物語。
・・・とカバー惹句にあります。
注:以下、ネタバレ含みますので、未読で、かつ、自分で読んでみたいという方は「いいね!」まで跳ぶことをお勧めします。
物語は、品評会入賞、中白種の豚メージャー爺さんの演説で始まるのですが、これは、その一部。何なら、某緑の人を思い浮かべつつ、どうぞ。
「さらに同士のみなさん、みなさんの決意は、断じてぐらぐらするものではあってはならない、これをゆめゆめ忘れてはなりません。弁舌にまどわされて、進むべき道を踏みはずすようなことが、けっしてないように。人間と動物は共通の利害を担っている、とか、人間の繁栄こそ、とりもなおさず、動物の繁栄である、とかいった説に、けっして耳をかしてはなりません。それは、ことごとく欺瞞なのです。人間というものは、自分以外のいかなる動物の利益も、ぜったいにはかることはないのです。したがって、闘いのために、われわれ動物たちの間に、完璧な統一と、完璧な大同団結をしなければならない。すべての人間は敵である。すべての動物は同士である」
「わたしは、もうお話しすることはほとんどありません。ただ繰り返して申します。人間と彼らのいっさいの仕打ちに対して、うらみを固持するという義務を、かたときも忘れてはならない、と。いやしくも二本の脚で歩くもの、それはすべて敵である。いやしくも四本の脚で歩くもの、あるいは翼をもつもの、それはすべて味方である。さらに、人間と闘うに当たって、心に銘記すべきは、人間のまねをするようになるな、ということである。人間を征服した後も、彼らの悪習に染まってはならない。およそ、動物たるものは、ゆめ、家に住むべからず、ベッドで眠るべからず。衣服を身にまとうべからず。酒をのむべからず。たばこを喫うべからず。金銭にふれるべからず。商売するべからず。人間の習慣は、すべて悪徳である。そして、とりわけ、およそ動物たるものは、同胞に対して、かりそめにも暴威をふるうべからず。弱いものも強いものも、賢いものも愚かなものも、われわれは、すべて同胞である。およそ動物たるものは、他の動物を殺害するべからず。すべての動物は平等である」
その演説を受けて、スノーボールとナポレオンという名の2匹の豚が、動物主義(?)の原則「七戒」なるものを書き上げます。
1,いやしくも二本の脚で歩くものは、すべて敵である。
2,いやしくも四本の脚で歩くもの、もしくは翼をもっているものは、すべて味方である。
3,およそ動物たるものは、衣服を身につけないこと。
4,およそ動物たるものは、ベッドで眠らないこと。
5,およそ動物たるものは、酒をのまないこと。
6,およそ動物たるものは、他の動物を殺害しないこと。
7,すべての動物は平等である。
しかしながら、農場には、動物故に七戒さえ暗記できないものも多く、そういう者のために「七戒」は・・・
「四本脚はよい、二本脚わるい」
・・・というフレーズにまで単純化され、以後、度々シュプレヒコールで叫ばれることになります。
さて、動物たちの人間に対する反乱が一応成功した後、ナポレオンが指導者と呼ばれるようになった頃のこと。
「豚たちが、突然、農場住宅に移り、そこを住居と定めた」りして、しかも「豚がキッチンで食事をとり、客間を娯楽室として使い、おまけにベッドで寝ている」なんて噂もささやかれるようになります。
すると、人知れず「七戒」の「4」に文言が書き加えられました。
「およそ動物たるものは、シーツをかけたベッドで眠らないこと」
しばらくすると、スノーボールスにパイ容疑がかかり、そこから多くの動物たちの告白と処刑と精算が続きました。
その折には、ひっそりと「七戒」の「6」に条件が付きました。
「およそ動物たるものは、理由もなく、他の動物を殺害しないこと」
大量粛清の後、ある日、同志ナポレオンが死にかけているのが目撃されると(実は泥酔して眠っていただけ)、今度は「七戒」の「5」に修飾語が加わりました。
「およそ動物たるものは、過度に酒をのまないこと」
そうこうしているうち、ついに「七戒」は、たったひとつの「戒律」へと全面的に書き換えられていました。
すべての動物は平等である。
しかし、ある動物は、ほかのものよりももっと平等である。
「ある動物」が何を指すのか「ほかのものよりももっと平等」がどういう意味を持つのか、言うまでもありませんね。
そうして、豚と人間が・・・
もう、どちらがどちらか、さっぱり見分けがつかなくなっていたのだった。
・・・というオチがつくわけです。
『動物農場』は、以上のような、寓話、政治風刺の物語。
もともとは、ロシアにおける階級闘争やら、ソビエト社会主義(共産主義・全体主義)やらを批判したものです。
が、
コロナ禍の今日、政府(首相)と地方自治体(知事)の対立とか、マスメディアとネットの主客転倒とか、「コロナ怖い派」と「大したことない派」との「分断」とか、
あるいは、マスメディアに対抗するかたちで成長したネットのプラットフォーム企業が、市場独占状態になった途端かつてのマスメディアと同じことを始めているように見えるあたり、とか、
どうしたって、いろんなことを考えちゃいますね。
参考までに、訳者による「解説」と「あとがき」からも引用しておきます。
「解説」から
~~~スペイン市民戦争にアナーキスト系のP・O・U・M市民軍の一員として従軍中、共産主義者たちの陰険な謀略や、真実をことさら歪曲し、隠蔽し、しまいには抹殺すらしようとする悪辣なデマ宣伝や、卑劣な弾圧やテロ行為などを身にしみて痛感し、共産主義者、ことにスターリン独裁体制下のソビエト連邦のやり口に対して、深い疑惑と反感を抱き、共産主義はけっして社会主義ではなく、むしろ、社会主義という仮面こそかぶっているが、その実態はまさしくファシズムにほかならない、とまで確信するようになったのだった。~~~
~~~つまり、この物語の登場動物(人間を含めて)の対立・葛藤、「動物農場」の成立・発展過程のパターンは、なにも特定の時期の特定の国の政権のそれではなくて、右であれ左であれ「権力機構」というものが具体的に働く場合に、必然的にとらざるをえない普遍的なパターンなのである。そして、ここにおいてわれわれは、『動物農場』が教えるいまひとつの寓意に到達するのだ。「権力」というものは、それがどのようなイデオロギーと結びついていようと、確立されて定着し、永続すると、必ずその権力を握るものの腐敗と堕落を産むのである。ひとつの「権力機構」が倒されても、必ずすぐまた新しい―多少よそおいをかえた―「権力機構」が生まれてくる。「権力」というものは、本来そういうものなのだ。~~~
「あとがき」から
確かに、彼を社会主義的な「行動の作家」、あるいは「反体制の作家」と見るのは正しい。極言すれば、それ以外の見方はできないような気さえする。ただ、ここで忘れてならないのは、彼が「行動の作家」、「反体制の作家」ではあっても、決していわゆる教条主義者ではない、ということである。~~~なるほど彼は、本国にあっては資本主義社会の歪みを直視し、その不合理を指摘した。またビルマにあっては、英帝国主義の暴虐を摘出し、スペイン市民戦争に従軍しては、ソビエト・スターリニズムの欺瞞を暴露した。しかし、資本主義の悪を告発したからといって、共産主義に走ったわけではない。また、帝国主義の邪悪さを摘出したからといって、単純に当時の民族主義に加担したわけではない。あるいはまた、ソビエト・スターリニズムを批判したからといって、安易にその反対の陣営にくみしたわけでもない。~~~右でなければ左、白でなければ黒、味方でなければ敵、◯でなければ☓といった、単純な公式で全てを割り切ろうとする教条主義的見解こそ、われわれを誤らせる最大の害悪である。
同調圧力をかける群衆の強さとか・・・
付和雷同してしまう個人の弱さとか・・・
全体主義の種はそこら中にあるよなあ。
・・・と思う、今日此の頃です。
昨年中は「新型」というワードが「コロナ怖い」界隈を席巻しました。そして今日では「変異」が同じ役目を果たしているようです。
直近の新規感染者数(本当は検査陽性者数なんだけど)など見せられ、最多最多のリフレインを聞かされてビビる人が多いのも、まあ、分からないでもない。
でもね、実のところ・・・
感染者数(本当は検査陽性者数)は検査数の関数っぽいし、しかも「感染」者のほとんどは「回復」するんです。
実際、回復してるんです。
変異株が出てきても(というか、出るに決まってるのだけれども)、それで陽性者が増えたとしても(というか、伝播力が強い変異で「感染」例が多数「発見」されるから「変異株」として認識されるのだけれども)、つまるところ、その中で死亡する人の割合は変化しておりません。
「感染爆発」してエライことになっているとされるインドと、未だ(世界標準で言えば)低空飛行の日本とを比較しても、その割合には、ほとんど差がないのです。
インド、5月7日現在、陽性者のうち「回復」者:98.69% 死亡者:1.31%
日本、5月7日現在、陽性者のうち「回復」者:98.10% 死亡者:1.90%
インドでも日本でも、検査陽性者100人のうち、1人、もしくは2人が亡くなっている、その数値は、検査数が安定して以降ほとんど変わっていない、ということです。
これを多いと感じるか、少ないと見るかは、まあ、人それぞれでしょう。
ただ、検査陽性者の周囲には、検査陰性者がその何倍もいて、さらには検査に至っていない人も大量にいますからね。
ちなみに、人口100万人あたり死亡者数は(新型コロナ「発見」以来の累積で!)、インド174人、日本85人です。
参考までに、世界で一番多い国はハンガリーで2,957人。
その他、巷間話題にのぼる国では、イタリア2,032人、英国1,871人、米国1,790人、スウェーデンが1,396人です。