あ、そうなんだと腹落ち! 「幸せ」を追うな、充実を追え | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

 

「幸せ」を追うより、

「充実」を追うほうがヘルシー。

 

 という整体師永井さんの持論です。これだ! と膝を打って納得しました。

 先日箱根に旅行に行き、ターンパイクのとちゅうでガスが出て前方ほとんど見えなくなったり(恐慌)、風雨の中ロープウェイの上の元宮(頂上は寒い)までのぼったり、九頭龍神社の森をえんえん歩きつづけたり、困難、疲れ、不如意がいろいろあった。でも————「よかった感が半端ではなかった」のです。

(では、なんでそういう体験自体がいいのか?)

 

 

 

 

永井さんの説のつづき。

まず

幸せ」は「完璧」に似ていて、

その条件や減点法が厳しく、自分を縛ってしまうんです。

 

「まだ幸せとは言えない」

「ここにもあそこにも不幸のタネがある……」

つってね。

 

それって実は

「足るを知る」の逆で、

「足らないを知る」ばかりになる(リスクが大きい)。

 

そして、

条件しばりや減点法は、自律神経に負担です。

体や血管を「強ばらせる」ことになる。

 

そんな状態では血流が悪くて疲れやすくて

こりやすくて呼吸も浅いわけで、

幸せはますます遠ざかる。

「恐れが恐れを呼ぶ」というやつだね。

もちろん、ヘルシーじゃない。

 

🌟そう、幸せの条件……として考えると、メンタルに感情的に負担のないオーケーなことばかりあるのがよい、と思います。でも、それだと、穴をほじくるように、あそこの「ウェイトレスさん」の接客が横柄だった、とかこれこれで待たされたとか、「ナイもの」のほうを見て、点数化してしまいます。

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いっぽうで「充実」は、違います。

 

充実は「トータルでいい時間を過ごした」

と思えればOK、という懐の広さがある。

 

たとえば、

へとへとに疲れて汗まみれになっても、

筋トレや仕事や掃除や登山などの「果てに」に

充実感を覚えることは、当たり前に、できる。

 

つまり、

ゴールまでのプロセスに

「ネガティブ要素」があっていいんです。

 

「汗かいたからこそ、酒がうまいんだ!」的なね。

(ちなみに、汗かいたときは水も飲んでね(笑))

 

それどころか、

まだゴールさえしてないプロセスの途上でも、

「やり応え」や、

「今がんばってるぜ感」や、

「熱中している状態そのもの」が、

たしかな充実になったりもする。

 

 

あまり「減点法」がない。

 

むしろ多少の向かい風に出会っても、

(充実を増す要素として)「それはそれでアリ」

と包み込んで消化吸収できる。

そんなふうに「加点法」の追い風を受けられるのが、

充実を追う世界だと思うんです。

 

 

ちなみに意外と重大なサインとして、

「許せないことが多い人」は恐らく、

充実よりも幸福のほうを追っているはず。

 

………………

 

さて、じゃあ、

充実(感)というものは、どうしたら増えるのか?

 

 

これには、

心理学が明確な答えを出してくれてます。

 

充実感の正体って、

「後から思い出せることの量」なんです。

 

これはけっこう、

実感しやすいんじゃないかな?

 

たとえば、

これまでの人生で

「比較的、充実していた時期」を

思い出してみてください。

 

――ちなみに今……

 

「充実と言ったって、人と比べてではなく、

 あくまで自分のなかで、でいいんですからね」

 

考えてみれば、

「幸せ」のほうは

「つい他人と比較してしまいやすい」けど、

「充実」って個人的なものでしかないから、

他人との比較(=不幸の元)が介入しにくいんだな。

……と、気がつきました。

(本当は幸せだって、個人的なものでしかなんだけどね。

 とにかく色んな誤解が含まれやすいんだよね、幸せって)

 

で、話を戻すと、

「充実してた時期」ですね。

 

……

「思い出せるシーン」が、多くないですか?

良いものも、

そのときはきつかったものも。

 

つまりは、そういうことなんです。

 

 

充実感を増やす一番たしかな方法は、

 

●よりよく記憶に残りそうなほうを選ぶ

 

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🌟たしかに「あそこまで100何段のぼらねばならず、足重いし、もういいわ」というのが、楽な「想定内幸せ」だったりします。が、「チャレンジ」(あとさき考えずの、予想不能世界)に突っ込むと、頂上ですごいパノラマが見られたりします。

 

 これは、見られたから○、見られなくて散々な目にあったからバツという結果採点ではないです。

 

「いろいろあった!」充実とはそれだけだなあ

 

🌟そのすぐあとで雨になったから、ラッキーだった、とか後付けの採点で良し悪しが決まるのではない————

 

🌟🌟🌟ここが「サトリ」な世界につながると思ったのは、充実を求めれば滂沱の「すべて良し」感にどっぷり入りこめること。(点数づけやラッキーを数えあげることを通じて、「良し」になるのではない!ものが「充実」)

 

🌟幸せに焦点を合わせて進むと、あそこでうまく休憩しよう、とか、晴れたらいい、とかを目指すことになり、わたし的には「よくないこと、困難がない」ことを目差す、つまりあちこちバツのつく未来の減点法を避けることになってしまいます。

 

🌟それに対して、「充実」を目差す場合は、最初の出発点から「ガソリン入れておいてよかった」とか「渋滞にはまらなかった」とか現在完了の「プラス加点」から始まります。さー、これから行くぞ。です。

 

🌟九頭龍神社の前に巨大なしだれ桜がありました。そこでキャーキャーもりあがっている女性のグループの写真を撮ってあげ、お礼に撮ってもらい、そうしたらまた本宮で再会、また写真撮りあいになりました。

 

 

 あれ、偶然で、よかったね、とあとから考えるのではなく、いま、「おおラッキーだ」

 吟味はしない、それが充実。

 

🌟うまくいくか、どうなるか、わからない。でも○×△全部とりまぜ、「いっか」と思える、そういうエネルギー状態は(予測脳の計算ではなく)身体にチャージするもの。

 ということで、充実こそ全てのオーライです。