思い出すとは、空間の中にそれを設置すること…… | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

久しぶりにサントリー美術館に行きました。六本木ミッドタウンの巨大な建物です。

 この場所は久しぶり、別棟で夏に恐竜科学博を見たくらいかな。

 別棟以外は、いくつか、ひいきのお店があり、そこを確認しながら散歩します。

 

🌟しかし、この迷路のような建物をめぐっているうち、思い出して、「夏に、喉が渇いたから、テラスを見下ろすコーナーで、小さい屋台のようなバーガー屋? でコーヒーを買って飲んだね」という話をダンナさんとしました。

 

 すると、彼は「あったような気がするけど、それはこの建物じゃない」「銀座SIXか六本木じゃないほうのミッドタウンだった」と反論しました。

 いや、ここだった、と私は自信をもって、あっちのほう、ブランチになっている廊下のはずれのほうだった、と言いましたが、四方八方に似たように通路がのびていて、その区画が見つからない……

 

🌟方向感覚に自信があり、車の免許をもっているダンナさんは絶対この建物じゃない、と言い、あっち、こっちか? と、つきあってくれましたが、やっぱり私の勘違い、と思われています。

 

🌟大きな建物の中の体験は、思い出すと、夢の感触に似ています。小学校の校舎の中を思い出すと、あっちに小さな階段があり、屋上は裏からまわっていくんだった、戸棚のある廊下があって……と出てくるのですが、

 

すべて「区画」「セグメント」です。ある部分だけが、脳内で記憶として切り取られて、ポーンと、ワンシーンだけあるのです。

 廊下や階段全体がつながった透明ジオラマとして思い出す、ということがありません。

 

🌟ふと気づきました。ジオラマ(マップ)の記憶は「計算する脳」があとから作りますが、実際にその場所を歩いて味わった「体験する断片脳」の一次記憶は違うのです。

 まちがっているというのではなく、仮構された全体像と、まさしくその部分、セグメントだけを生物的五感でとらえた一瞬の記憶像の違いです。

 

🌟体験するとき、私たちはその建物の中に呑み込まれているし、視点がただひとつなので、映画のカメラのようにあちこちを一瞬に全部脳内におさめるということがありません。

 

🌟で、私の頭の中では、輸入文具のお店、伊東屋のお店、家具のお店、お箸のお店、キッチンツールのお店などが、それぞれ小さな周縁という枠の中におさまって、一枚一枚、別の絵(区画)となって思い出されます。

 そして、「たしか○階のこのへんだった」というのも、五感で眺めた画角だけの絵なので、フロアマップでは探しあてられません。

 

🌟地図と、場所の記憶は、まったく違う……そして断片になっている一次記憶の絵は、なんかこういう場所を歩いていたら、右側にあった、というようなたぐりかたしかできない。

 

🌟そこで、じわっと浮かんできたのは。

 たったひとつの視点から全体が統一されて脳内に収められる西洋の遠近法の絵画、風景とはちがい、視点が毎瞬ずれていってすべて不連続で描かれているのが、『洛中洛外図」のような大和絵なのだ、という美術史家の説明です。

 たぶんわたし(歩く人)が味わうのは「不連続」な空間なのです。

 

🌟つらつら考えながら、けっきょくサントリー美術館のうすぐらさの中で、織田有楽歳の書状や茶碗を見て、ますますα波からθ波の脳波になっていって

 

ふと、そのあとで、下を見下ろしたら、2階ではなく1階ですが、記憶に近い光景があり、下りてみたら、記憶にひっかかっていた、コーヒーコーナーや、椅子席が、ぼけていた映像がじわじわハッキリ焦点が合うように、「あっ、ここだ」と定まりました。

 

🌟この思いだしの安心はなぜなのか。やっぱり私の覚えていたとおりだ、と胸がおちついたのは————大きな現実の場所に、私の記憶の小さなセグメントがはめこまれて、世界の全体性がとりもどされ、ものすごくスッキリしたのです。

 

🌟記憶とは、「そうだ、ここだった、ここにいた」と大きな現実の中に、設置され、おさまって、初めて無類の安定感を持つのかもしれません。というか、記憶の絵が、より大きな世界の中に落ち着き場所を見いだして、ジグソーのようにはまった。

 それは、「あいまいな夢の私」が、ほんとうの世界に実はいたんだ、と自分の存在を太い輪郭で確かめなおせたような……

 

🌟あー、この風景だった気がする、とダンナさんの認知も得て、私はたいへん安堵しました。

 ワンポイント・シーンの場所がほんとうにあった。急にその場所の風景が色濃く臨場感を持ちました。

 家へ帰って思い出したら、またうすぐらくゆるい輪郭になるのかもしれませんが、その瞬間は、それは実在した。

 

🌟多くの迷路や迷宮の神話があります。それは人の心の記憶のふしぎさと生物としての感覚を手探りで、えがきあらわすものかもしれません。