ほんとうの「私」とは、「私」をそういうふうに(「外」から)規定している「外」の意識。 | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

 

バシャールやエイブラハム動画にわかりやすい翻訳をつけてくれているイワセアキラさん。

 今回はご自分の言葉で、みっしり説明してくださった回がこれ。

 

🌟「私(自分)」はこういうヒトで、なかなか変われないな。

 というような自己規定を、私たちはふだんしています。

 でも、その「こういうヒト」は「私」本体ではなく、ただのネガティブ・ビリーフ。そのビリーフを作っているのは、この仮構の「私」の「外」にある意識。

 

こんな感じです。

「わたしはこれこれです」と言った段階で、それは「外のほんとうの私がこしらえてみた」つくりもの。

 コレ。

これを作った、自由な人形師が「私」

 

🌟すると、私はこの人形ではなく、それを作った無限の「外」がわだ、とわかった段階で、すでに自己規定から抜け出して「変わっています」

 

🌟とてもシンプルな真実。

 

とはいえ、「私ってこういうヒト」という自己規定に慣れてしまっている、わたしたちのふだんのありかたからすると、とまどいます。

 

私はじつはこの制限だらけの自分像 の「外」の領域、私は「無」、私はすべて……。

 大いなる意識というのは、なにかつかみにくく、自分は無形の「空」であり「ソースにつながっているナニか」である、と思ってみると————あっ

 

 

なような、じゃあ、なに? と、とほうにくれるような。

 

🌟「空の空」(旧約聖書『伝道の書』)とはこういうこと、「ネイティ、ネイティ、アートマン」(ヴェーダ哲学)とはこういうこと、かとひとつ腑に落ちたような落ちないような、でも半分以上落ちています。外なるわたし(ソース領域)では……

 

NHKの人形劇の元祖となった結城座・