”バシャール:自分の正当性” | hermioneのブログ  かるやかな意識のグリッド(の風)にのる

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バシャーリアン。読むことで意識が変わるようなファンタジーや物語に出会ってゆきたい。

🌟私たちは、つい「正しさ」という絶滅危惧な徳目に足をとられそうになります。正義は死んだ・・・・・・はずだったのに。🌟人の言葉や事件、失敗で、傷ついた感情を別のものでコーティングしたり、ぬり消したりして、とにかく修正処理してしまうこと————

 感情というナマ素材に対して、いつもやってしまうことかもしれません。

 

 よくやる手当がこの「正当化」・・・・・・

 

🌟不運なことが起きた(たとえば店内などで看板につまずいて、商品のジュースをこぼしてしまった。足をすりむいた)→(自分の不注意?)→いや、こんなところに危ないバランスで置いておくほうが悪い→そんなことに気づかない最近の店が悪い→サービスに関しても社会の意識を変えていかなければ

 

 と、ふくらんでゆきます。

 

🌟他に屈折拡大だな、と思うのは、例えば子どもが、あるいは自分が「イジメ」にあったとき。

 本来の感情は、その相手本人に対する一時的な憤りや悔しさ

 のはずですが、教育の現場が悪い、意識改革が必要だ、制度に問題がある、管理すべき教育委員会や児童相談所が悪い、賠償責任・・・・・・

 

 となってゆきます。

 

 自分の受けた悔しさや不快な感情を、どこかで「正当化」して救うためには、大きなものにすりかえて「糾弾」しなければならない。それで「気がすむ」かも・・・・・・

 

🌟感情のこういう救い方も、アリだ、とは思いますが、自分のほんとうの感情のコアをごまかしている気もします。

 原始的な生物の反応は「イジメられた、被害にあった」→「悔しい、怒り」だけなのではないか。

 

 赤ちゃんや幼児は、相手をぽこぽこ、とたたき返してあとは忘れてしまいます。ずっと引きずって、「恨み、晴らさでおくべきか」とのちのちまでも考えたりはしない。それを自己の存在理由にしてしまうのは、少々辛くないか?

 

(さらに「正当化」は一般化という罠にもはまります。

 私も中学のときの体育の先生のことを今でも微妙に恨んでいて、体育教育に関してはどうしても斜めに批判してしまいます。偏見への道をしっかりたどっています。)

 

バシャールはこの「正当化」のしくみについて、こう語っています。

 

「貴方はバイブレーションの存在です・・・・・・(中略)

 

しかし、私たちは時に自分の感情的反応を正当化してしまうことがあります。ある意味、『本来の自分』を選ぶより『自分の正当性』を重要視してしまう事があります。そうなると、たとえ不快さを感じていても、『自分の正当性』を追いかけ続けます。なぜなら、『これが道理にかなって正しい事だ』と信じるからです。

 

貴方の感情的反応は嘘をつきません。宇宙も嘘をつきません。貴方が発するバイブレーションを宇宙は『そのまま』反映して跳ね返してくれるわけですから、貴方が不快な想いをしてまで正当性を問う事に意味があるのかどうか、真剣に見つめ直してみるのも良いかもしれません。」

 

🌟鋭い指摘です。

 私は正しいのに、と高らかに言いたくなる心理。

 人間は正当性にともすればこだわってしまいます。動物は正当性なんて思わず、ただ自分の感情をいたわるだけ。

 

「いま気分がよいか」と考えてみると、「不正の根源と思われるナニカに謝らせなくては気がすまない」気分は索然としています。

 

「傷ついた感情」→「○○のせいだ」外部に対して鎧をまとう。

 

🌟家族など人間関係の場合、「あなたが悪い(証拠や正しい理屈つき)」と相手を責めますが、そういう「正当化による勝ち方」よりも、一番よい解決策は

 

「あの言葉で、私は傷ついた」と自分にフォーカスして、自分の状態を伝えるだけ。

 ・・・・・・とよく言われています。

 

いつでも自分しか、いないのに。

 

 

🌟バシャールはいろいろ私たちの硬直を突いてきます。