待望の新刊が出ました。
「空気読みすぎ」さん、の代表のような大嶋先生みずからが、痛い思い出をちりばめながら、同じ悩みの人に語りきかせ、そしてスクリプトしながら、催眠に入れてしまう............という大嶋心理学の真骨頂本。
「知識という固体ではなくて、感情の軟体動物のような」というか「溶けるクリームスープのような」そういう、細胞にしみわたる本です。
これ、いいです......
(スクリプトに対しては、こういう、ぼーっ、じーん、としたレスポンスになってしまいます。)
🌟付箋はいろいろつけましたが、それとは別に一夜明けると、心にインプットされてしみわたっているメッセージ、真理がぽん、ぽん、と水面に蓮の花が咲きだすように浮かびあがってきます。
まず
✳️人の気持ちを慮る、空気をいつも読もうとするのは、相手の心に土足で踏み入ることだ。
大嶋先生自身、これを四六時中する癖がついていて、相手の意を迎えよう、喜ばせよう、とするあまり、過剰な忖度、気持ちの擦り寄り、顔色を見る、という姿勢になり、相手からはかえって気持ち悪がられたり、自分を持っておらず、人の気をひくことにすがろうとする人間と思われたり、という生育歴が。
これは相手からすれば、「心に土足で踏み入られる感じ」。
自分が受けるがわだと考えると、たしかにわかります。
やっている側は夢にも思わず、自分に合わせてくれようとしているつもりなのですが、それは「あなたは.コレコレなのよね」とおためごかしに共感されたり、「......してあげるよ」とお節介な感じで立ち入られたり............
でもなんで、「空気読みすぎ」さんはそうしてしまうんだろう。
🌟そういう人は、うしろの帯にあるように、「楽しまない」「楽しめない」のです。
それはなぜなのか、実は「正しい→楽しい」という図式に縛られているから。
「正しい」こと(思いやりとか、人を優先するとか、波風立てないとか、気を悪くさせないとか)イコール「楽しいこと」につながる、と思い込んでいる。「正しくなければ、楽しんではいけない」となっている............
なので、「正しいことさえすれば、楽しくなれるはず」(みんなと同調するから、みんなの価値観に合わせるから、楽しいはず)となっています。
(気の乗らない会合に参加するとか、含め、そうすることだけが「楽しい」に至る道だと思っています)
✳️「正しい=楽しい」という図式を外す。
まわりを立てねば、という気遣いが、相手の迷惑になっているとか、うっとうしく感じさせているとか、相手のほうも逆に、「人のためにならなければ」というこちらの頑迷な「正しさ」を読み取って、重くなってしまう、そうしたもろもろを理解する。
✳️人の「楽しい」と自分の「楽しい」は違っていていい。
この「人に合わせない」スタンスも自己中心主義になりそうで、避けてしまいがち。でも、「楽しめない」人は「みんなに合わせて正しい行為・態度さえとれば楽しいはず」と思っています。
人の気分や顔色で、自分を調整することをやり続けていると、ほんとうの「楽しい」がわからなくなってゆくのです。
✳️こういうときに「楽しさ」があるという五つのしるし(ここまで書くのは大島心理学ならでは)。
①この時間がずっと続けばいいのに、と思える。
②もしかして、誰よりも楽しめているかも、と思う
③「この楽しさを誰に伝えてもわかってもらえなかったとき」の楽しさ
④また、あれをやってみたいと思う。
⑤自分はこれをやっていいのだろうかと、後ろめたさを感じる。
この五つの定義はユニークです。特に⑤!!
自分が楽しむと、周りの楽しくない人たちに対して申し訳ない、悪い。というふうに思ってしまう人が多いです。
「私が楽しむと、誰かが不幸になるというバタフライ効果のような現象が起こるのではないかという不安が、空気読みすぎさんの中にはある」(p.116)
だれしも自分だけが幸福になったら悪い、という気持ちを持っていますが、「空気読みすぎさん」はこれが徹底している。
だから、不当な態度を取られても相手に文句を言うことができず、仮に文句を言っても、そのような態度を相手にとらせた自分が悪い、とグルグル回ってしまいます。深層心理的にはいつも「自分が正しくない」と思っていて葛藤......
✳️楽しさを選ぶためには「楽しそう」と思ったらやってみて、楽しくなかったら、すぐやめる。(楽しくなくなったときに、自分の選択が悪かった、と、すぐ自分を責めてしまいがちです。)
周りの人の気持ちを読みすぎ、思った反応が返ってこない場合も、「私が悪い」とフィードバックしてしまう。これは「自分に楽しさ」を蓄積させてこなかったから。
🌟で、けっきょく「どうすれば楽しくなれるのか」が最大の鍵になります。
「相手の気持ちの中に、自分の「楽しい」が隠れているわけではない」と知る。相手からの承認で「楽しくなれる」と思うことが誤り。
「楽しいって相手の中にあるのではなく、自分の中にだけあるもの」(p.187)
日々「少しでも楽しい」ことを選択するくせをつけてゆくと、人の気持ちを詮索したり、周りの反応に目を配る時間がなくなり、エネルギーが戻ってくる。
「だれかに依存するのは、相手の中に自分の「楽しい」があると錯覚しているから」(p.192)
🌟なんどもループをくりかえしながら輪がせばまってゆくように、一冊を読み終えると、上のようなことが細胞にしみてきます。
「これをやってみて楽しいかな」「それ楽しそう?」といつも自分に問いかけ、「楽しそう」なものに向かい、「楽しくなかったらすぐやめる」
「ちょっと楽しいかも」を選んで後悔したら「私は空気読みすぎでこだわりすぎちゃうんだ」と気付けばよい。
日々の積み重ねあるのみ。
「ちょっと楽しいかも」は、いい一歩。
🌟あともう一点。
空気読みすぎの「まわりを大切」にする人の場合、だんだん「怒りが頭に帯電」してきてしまう、という指摘もありました。自分がわからなくなって、相手の反応が思うようなものでないと、なぜ?と怒りがこみあげてくる......
ここの感情エネルギーの満ち干もたいせつなポイント。
(会議の場の中で気を遣いすぎると、相手に対して、「あー疲れた」「もうやめたい」という怒りが出てきます。
(ーー前にHAPPYさんの話に出てきたのですが、イベントでやりたい演出についてプロに相談すると、自分の言い分をきちんと聞いてくれて、丁寧にアドバイスをくれる。でも、自分の思っているのと少し違う。向こうは善意と達見にあふれているので、ちょっと違う、と言えず、説得されてゆく。相手は全然悪くないのに、なぜか相手に怒りを感じてしまう。)
自分を「なおざりにしない」「置き去りにするな」というバシャールに注意喚起された点でもあり、この大嶋新刊と一致)
🌟「わたしが楽しければ、みんなが幸せになる」「感覚にまかせればいい」という、いくつかの呪文も出てきますが、この本全体を「スクリプト」として、ひたすらスープのように、なにも考えず呑むのが一番よいと思います。
✨✨「正しさ⇨楽しさ」ではない!!
これが私には一番大きな一撃でした。協調や献身や気遣いを通じてでないと、楽しさ(みんなとの調和、一体感)にいたりつけないというのは錯覚でした......
「空気を読みすぎ」ではなく、「読みたいが読めない」人である自分にとっても、的の中心に刺さる本でした。