「パディントン、かわいいですか?」
映画を見てから、なぜか、この問いが心にずっとひっかかっていた。
『くまのパディントン』(マイケル・ボンド)シリーズ(1958-)は英国児童文学のキャノンのような作品。
かわいくて意地っ張りで、ちょっとマイペース、前向きなパディントンは、ペルーから単身、ロンドンへやってきた小グマ。デパートでマーマレードの缶詰と格闘して騒ぎを起こしたり、人のまねをしてちゃっちゃと絵を描こうとしたり、好奇心旺盛な少年を思わせる。「お若いクマの紳士」と呼ばれて、人間社会にも溶け込んでいる。
これがアニメ映画になるのなら、すなおにそのまま受け入れられた。
だが、近年は技術の進化によって、動物が人間のごとく感情表現をし、動きまわる、実写CGファンタジーが主流だ。この映画版「パディントン」(2014)も、監督がその野心にとりつかれた作品。動物としての自然なリアルから、一歩踏み出す。
★問題はそこだ。その「踏み出した」存在を、実写というリアルの枠内で表現するとなると、リアル社会につきものの、他のたくさんの約束事や常識と、きちんと折り合いをつけねばならない。
見た目はリアルなクマ→ではどうやって人間と意思疎通ができるのか。
答え=南米に来た探検家に言葉を習った。
人間に近い喜怒哀楽と知性を持っている→でも動物レベルであるはず。
答え=人間より大げさな失敗を、コミカルな行動レベルでしでかす(バスタブをあふれさせ、バスタブごと階段をすべりおりるなど)。
続いての答え=アニメの「トムとジェリー」と同じアクションを、重力にもとづいて修正せねばならない。ぴゅーんと宙を飛ぶにせよ、アニメではない、体重や体温や毛皮をもった実際の動物である、というデータからはみ出さないように留意すべき。
(「まんが・アニメ的リアリズム」に守られていない)。
さらにどう見てもクマである相手を、ロンドンの人々は、原作と同じようには、なにごともなく受け入れてはくれない。
絵本や幼年童話には「擬人化」という約束事があり、動物であっても、人間と同じ一元的な平面ですぐ交流ができる、ということになっている。イラストであれば、それで納得できる。→しかし写真というかリアル映像となると・・・・・・われわれはその一体感の平面からはじき出されてしまうはず。
答え=パディントンを迷惑動物として拒否する人もいれば、レアな生き物として剥製保存したいと望む女性がいる。実写映像である以上、どうしても、「現実世界のクマ」の生きざまから逃れることはできないのだ。
それで、原作とはほとんど重ならない、パディントンの(ユニークな)日常が誕生した。
☆姿形は、クマにしか見えない。だから静止映像なら、「かわいい」。
☆だが、動くときの「かわいさ」は、絵本で擬人化されたクマのかわいさではなく、現実のクマのかわいさでもない。
それは見たことのないクマ像で、なんだか妙に違和感があり・・・・・・。
心の底にふつふつと泡立つような違和感があって、続編は劇場に観にいっていない。DVDは予約したが。
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しかし、そのわからなさに、ふと、かすかな光がさすような気がしてきた。
それは、先週、動物と人間のファンタジー的な交流を、いっさいCG動物を使わずに表現した作品を観たからだ。
2013-2016年にかけてとられた「猫侍」「猫忍」のような時代劇ファンタジー映画数本にふとはまってしまった。猫と人間のきずなが、前者は「妖怪的な美猫VS現実的な浪人」というコンビで、後者は「父親が変身した太った猫VS若い忍者」というコンビで、実際の動物プロダクションの手を借りて、細やかにお互いの愛情が表現された。
愛情といっても、猫は犬とは違うので、微妙な動きや鳴き声や近付いてくる姿、ふところや鍋に入ってまるまる姿など、まったく現実的な動物のしぐさのシーンの連続でのみ表されている。
しかし、それだからこそ、近づきえない相手の気持ち への思いは高まり、人間とはかけはなれたそのしぐさに、独自の美しさと生き方、違う体温を見つけることになる。
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話をもどす。
擬人化されたアニメふう「クマ」 の動きを持つ映画の「パディントン」は、同時に、南米に生息する希少種の「クマ」でもあると規定されている。
想像と現実、両立しがたい性質をあわせもつこの「存在」は、「ゴクリ」(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)のような完全な想像上の生き物とは違う。どちらもCGだが、全面的に架空存在として作られた「ゴクリ」に比べると、「パディントン」は設定が微妙だ。
パンフレットのプロダクション・ノートにはこうある。
「プロダクション・デザイナーのゲイリー・ウィリアムソンは「スタートは、リアルな世界を作ることだった。今までのパディントンの映像化作品の切り絵のような世界じゃなく、しゃべるクマがいてもまったく不思議でない幻想上のリアルさだ」と本作の美術の考え方を語っている。
そのため本編では、日常的な場所でさえも、微妙に絵本のような質感になっている。さらに細部にまでこだわったインテリアや装飾品は・・・・(中略)・・オリジナルで制作された。彼の目を通して見るこの世界は、時代を感じさせつつも現代的で、いかにもイギリス風な一方で、無国籍な要素がちりばめられることになった」
「幻想上のリアル」。便利な言葉だ。
思えばあからさまに別世界が「幻想」だった時代(「ピーターパン」のような)に比べれば、『指輪物語』以降のぶあついファンタジー小説は、「幻想上のリアル」をめざしていたと言える。
が、映画において、現実にいるリアル動物を、「しゃべって笑う」幻想の領域にうつしかえるには、背景にも「絵本のような質感」が必要だったようだ。現実と絵本のはざまに住む、ハイブリッドな存在を支えるには、世界そのものも「リアル」から少し踏み出す必要があった。
いっぽう『ズートピア』や『PET』のようなアニメ動物ファンタジーも隆盛だ。若い婦警のアニメうさぎと、このパディントン、どちらがかわいいだろう(そう言えばTEDもいるが、あれはぬいぐるみだから、なぜか違和感なくキモ可愛い)。
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人間化されたCG実写動物
vs
映画で演技するものいわぬ本物の動物
私が後者のほうに心をつかまれたのは、動物と人間の距離と差異の、美しさ、対照の貴さのためかもしれない————そんな気がする。この届き得なさが、人間と動物の交流の魅惑なのだ。
届き得ない心と心をけんめいに橋渡しすることに、映画の力があるのではないか。
(映像技術で、最初から苦もなく通じ合っている生き物どうしに見せてほしくない、現実のクマだという担保によりかかって、野生とのフェイクな和みを見せてほしくない、そんなあまのじゃくな気持ちだろうか。これは「パディントン」続編を見たときに、改めて考えてみるつもりでいる。)