■马马虎虎de ALS■
ジェノサイドその5
(「康子」その2)
卒業してからも夜は9時には布団に入り、朝は10時ぐらいまで寝ていたが、夜中に脚が攣ってあまりの痛さに目が覚めてしまい、でも康子はただただ「ジー」と痛みがなくなるのを待つしかなかった、一晩に二度も三度も攣ることも多く、腕も背中も攣ってその上耳鳴りもひどくなったようです。
母の「ルイ」も頭痛や耳鳴り、それに視野狭窄に熱の40度も加わり、食事も娘の看病も出来ない状態でした。 病気の原因もわからぬまま、あちこちの病院へ通ったがぜんぜん良くならず、「小児麻痺」といわれた、康子も「いま流行の奇病」ではと思ったが、世間の目の冷たさが怖くて名乗り出られなかった。
昭和34年「水俣病」の原因が窒素の流した水銀であることを知ったとき、康子の病気はそれだ、それに違いないと思った。 35年に熊大が行った住民調査を受けたがその結果は何も知らされなかった、またその11月熊本衛生研究所により、毛髪のスイギン量も測られたが、その結果も知らされることは無かった。
昭和37年ごろ、それまで小児麻痺といわれていた者達が「胎児性水俣病」と認定されたので、康子も市立病院へ連れて行ったが、「病状からすれば「水俣病だ」が発病が早い(国として「水俣病」は、昭和28年以後の発病)ので、認められないとのことで、病気の時期により認める、認めないは変でしょうと食い下がったがだめであった。
その後、43年12月10日認定申請をしたが、45年5月にまた「理由も無く却下」された。さらに川本輝夫さんの勧めで45年10月に再申請をしたが、46年6月に「保留の通知」があった、その後47年1月県の公害課から熊大へ入院しろとの連絡があり、50日あまりにわたりいろいろ調べて、その結果やっと「認定された」発病してから20年も経っていた。康子はそれまでの長い間「死ぬことばかり」考えていた、後でわかったことだが、母のルイも同じことを思っていたらしい